10月6日(木) 知事選挙公示

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本日、岡山県知事選挙が公示され、現職の伊原木県知事が、岡山県庁前から、2期目に向けてスタートしました。自前で選挙が仕切っていけるということで、いろんな意味で、本当にきっちりされていると思います。

自由民主党にとっても、大切な推薦候補ですから、敢えてお願いがあるとすれば、やはり、2期目は、教育再生、産業振興に加えて、特に県北の振興、防災対策、なによりも、福祉施策にさらに力を入れて頂ければと思います。

それにしても、久しぶりに、娑婆に出て、青空を見た気がします。ロキソニンを用心のため飲んで行きましたが、少し汗をかくと、いつもの薬のにおいがして、本当に気持ちよくありません。

県庁食堂が、いよいよ形を失っていくのが辛いなぁ。

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【なぜ選挙に出るのだろう】

たとえば自分の進みたかった本来の夢をかなえるために、リスクを背負って、会社経営者から転身するために、伊原木知事のように選挙に出ることは、他人がとやかく言うようなことでなく、人生の選択として、あることなのだと理解できます。

 

ただ、なぜ世の中に、かくも選挙に出たいと思う人がいるのか、理解ができないときがあります。やはり、大義がなければならないし、当選して何をするのかという明確な思いがなければ、人生を賭けて、大博打を打つようなことは、普通は、考えられません。
なによりも大切なことは、使命感であり、それができなくなれば、腹を掻っ捌いて死ぬという侍であるということで、私自身、議員として議場で、果てたいと思っています。少なくとも、いわゆる半代表として、本会議や委員会で発する言葉で、少しでも、前に進んでいく可能性があるからには、議員は、会議録に残る発言を続けなくてはいけません。

 

しかしそれ以上に大切なことは、動機です。世の中を良くしたいなどというのは当たり前のことですが、私自身の根っこは、怒りにあります。義憤と言えるかもしれません。
我が家の昼夜保育園で感じたこと。弱い者は、どんどん弱くなる。そのひずみが、全部、子ども達に行っている・・・これで良いのか?ということです。

私は、ずっと私なりの政治の目標として、またあるべき姿として、『愛と夢の公正な分かち合いのために』ということを掲げてきました。「愛」と「夢」という美しい言葉ですが、それは、言葉を換えれば、「現在」と「未来」ということです。それらを平等にというのではなく、システムとして、「公正」に分かち合うよう努力するのが政治じゃないかということです。

50円のイチゴを買うかどうかで悩む母の横にいたり、今日の晩御飯は、これで我慢してとインスタントラーメンが続く日があったり、家庭内のゴタゴタに警察が来るようなことがあったり、私の見てきた現実とか体験は、楽しいことばかりではないけれど、『愛と夢の公正な分かち合う』政治を実現するために、手段として、選挙があるのです。

怒りは、動機として、美しくないかもしれません。しかし、それは、国際社会の紛争の根っこにあるものですし、実は、地域間格差、労働施策や福祉や社会保障、さらに具体的には、貧困や教育格差の根本にあるものかもしれません。
その怒りをどう昇華させ、施策にできるか、だと思います。

 

さらに、天から与えられる応えなくてはいけない使命があるはずです。
例えば、県立児童会館(サイピア)を残すためには、岡山県サイドから岡山市の政令都市化を推進するためには、選挙区をめぐるゴタゴタを解消するためには、防災対策を推し進めるためには、内尾のメガソーラー誘致を阻止するためには、絶対に私の力が必要だった。私以外できなかった、そういう自負があります。
逆に言えば、もはや時代が私を呼ばないのなら、岡山県にとって、必要な議員でないと自覚したら、私の役目は済んだと自らを裁く覚悟もあります。

振り返ってみても、私は議員にならせて頂いて、楽しいとか嬉しいとか思える瞬間はありましたが、幸せだと思ったことは、一度もありません。
初当選後すぐに、税理士の大学の先輩から、「お前みたいなのが議員になっても、そもそもビジネスモデルとして破たんしているよ。早く辞めたら?」と言われましたが、破たんしたまま進んできました。
『神様の逆宝くじ』が当たってしまったというのは私のよく使う表現です。

そのように感じている者としては、いったいこの人は、なんで選挙に出て、具体的に政治として何がやりたい人なのだろう?と考えることが、しばしばあります。
行き当たりばったりなのか、芸能人でも目指すのか、何様なんだろうな・・・。

 

また、地方議員なら、それぞれの議場が、国会議員なら永田町が主戦場でなといけないはずですし、そこから伝わる評価がありますし、なにより、そこで力がなければ、地域や国のことができるはずがありません。
にもかかわらず、期数をどれだけ重ねても、選挙に通ることそれ自体が、完全に目的化しているようにしか傍からは評価されていないケースもあります。ビジネスモデルとして、成立しているのでしょう。

いずれにせよ、選挙に出るということは、本来おかしなことです。「私はこういう立派な人間で、必ずこういうことができます!」などど往来で叫んで回ることなど、奥ゆかしさがある通常の感性の人間ができるはずもありません。

やはり、きっちりとした組織内で切磋琢磨の中から選りすぐられた能力と感性を持つ人間か、地域でその人格や識見が高く評価される権力欲の全く無い方が、推しに押されて、やむなく出馬に至るというのが理想的で、単純に言えば、出たい人より、出したい人をということです。
特に、地方議員は、ある程度の任期で区切って良いように思います。敢えて言えば、私の5期は十分のはずです。

 

ただ、私の選挙に関わってくださった方々に、本当になんの恩返しもできていません。本当に全くできていません。
貴重な時間やお金や気持ちを注ぎ込んでくださったのに、お詫びを申し上げるしか今の私にはできません。本当に申し訳ありません。

 

上條恒彦=『だれかが風の中で』

 

10月5日(水) 台風通過中

夕方6時現在、少しずつ風が強くなってきました。以前なら、満潮時に向けて、真夜中でも、一日中でも、危険が予想される地域をびしょ濡れになって走り回っていました。今宵それは、できそうもありません。不思議なことに、まるで、岡山市南部を避けるように、近年大きな台風が来ていません。台風も、不思議なほど、進路をそらして行きます。

ただ、平成10年、16年、23年と大型の被害が出て、早晩、大きな被害が出る台風が直撃しても、なんら不思議はないと強く感じます。

 

【あまりにも防災上の課題が多いのに・・  ハイ・ヌーン】

南に移ってきて、最初に私がやらなくてはいけないことは、ファーマーズマーケット・サウスビレッジを残すことでした。そのためには、どうしても、農林水産委員長にならなくてはいけないとポストを取りに行きました。私自身も、岡山市と直接折衝もし、結果的には、岡山市への無償譲渡(もっとも岡山市の希望で、1億円以上かけて、内部を修繕、回収しました。)となり、岡山市サウスビレッジとなって、うまく活用されています。

また、かねてから気になっていた岡南飛行場ですが、ご地元とも相談し、派手でなくても息の長いイベントをということで、管理事務所となかなか難しい予算調整などしながら、おまつりは、毎年続いています。

それから、早々に奥迫川の大山桜を守るために、樹木医を派遣するとか、藤田や呑海寺の信号機を設置するとか、児嶋湖流域一斉清掃に新橋会場増設とか、他にも、そういうことはいろいろあったと思います。

 

ただ、私が、日々悩み、忙殺されたのは、地域の防災対策でした。特に平成23年台風の影響はすさまじく、なにから手をつけていいのかわからないぐらい、同時多発で、問題が積み上がりました。

以下、思い出すままに、ざっくりと、私自身が、着手したり、要は、関わってきたところです。

    • 相引の海岸への自動車立ち入り禁止の杭建ておよび港の一部回収。
    • 西米崎の堤防の大規模改修
    • 米崎の土砂崩れ対応
    • 向小串の堤防回収
    • 小串港回収
    • 阿津の大規模海岸回収鵜
    • 宮浦のパラペット工法による堤防嵩上げ
    • 飽浦のため池口回収
    • 飽浦の長谷川の河川改修および河口部の整備
    • 奥迫川の迫川大池の防災利用
    • 奥迫川から迫川までの宮川の回収
    • 迫川のJR宇野線下からの宮川の浚渫
    • 30号線に向けて、宮川の両岸のパラペット工法による嵩上げ
    • 彦崎のJR宇野線下の前川の掘り下げ
    • 高崎土地改良区内におけるあれこれ
    • 郷内川浚渫
    • 紅陽台と倉敷川の間の伐採
    • 倉敷川拡幅の推進
    • 大曲地域の倉敷川堤防回収
    • 三連樋門およびその周辺整備
    • 都地域の倉敷川堤防の水漏れ対策
    • 浦安西排水機場の強化
    • 浦安の農業用水の浚渫、藻刈りの市への働きかけ。
    • 足守川の堤防決壊場所の緊急対応。
    • 足守川堤防整備。
    • 笹が瀬川新保港周辺改修
    • 大福の笹が瀬川河川敷の樹木伐採

これらは、一見、シンプルそうですが、実は、市との折衝や農林と土木の調整など、事がどんどんややこしくなり、地元説明会を来る返しても紛糾。おそらく、県管理時代から、道路の拡幅と一緒に要請されていた宮浦のパラペット工法による堤防嵩上げなどは、地元に喜んで頂けるものになったとは思いません。

これに加えて、藤田パイプライン整備の国との折衝、例の内尾メガソーラー問題など大難問が噴出します。より北の地域の方からは、「政令市の県議会議員やこ、いりゃぁせまぁ」と言われていましたが、事務所に立ち寄る暇もないぐらいドタバタしていました。

しかし、概して、こういう仕事は、地域の方は、覚えていないものですし、どんどん忘れられるものです。多分、地域のイベントごとに小まめに顔を出しまくって親近感を持っていただく方が、選挙には遥かに良いのかもしれません。ただ、個人的には、何十年も動いていなかったものが動き出すして、素直に感謝される喜びを大切にしたいです。

それにしても、地域の課題は、こんなものではありません。
最大の課題である児島湾締め切り堤防の安全性の問題。このあたりは、平成23年12月14日の私の一般質問は、我ながら見事にまとまっていると思います。

http://giji.pref.okayama.jp/discuss/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?USR=webusr53&PWD=&A=frameNittei&XM=000100000000000&L=1&S=15&Y=%95%bd%90%ac23%94%4e&B=-1&T=0&T0=70&O=1&P1=&P2=%8d%b2%93%a1%90%5e%8e%a1+&P3=&P=1&K=109&N=501&W1=%8e%99%93%87%98%70%92%f7%82%df%90%d8%82%e8%92%e7%96%68&W2=&W3=&W4=&DU=0&WDT=1

それに加えて、土砂災害について。広島の土砂災害のあった地域と児島半島は、花崗岩地質で同じであるということです。さらに、ゲリラ豪雨。1時間当たり100㎜の集中豪雨があれば、岡山市内中心部は、壊滅的な打撃を受ける可能性があります。さらに、台風でなく、南海トラフ地震なら・・・そういう課題を今後どうするのか。これらは、誰かが、背負わねばなりません。  笑っていられることは、なにもありません。

もう少し、大切にしてくれれば良かったのに・・・。
『HIGH NOON』

10月4日(火) 戦力外通告の季節

パ・リーグの公式戦は、まだ終わってはいませんが、毎年この時期は、プロ野球の戦力外通告の時期です。6日まで、第1陣が続々発表されますが、若手で、育成契約になるのかなと思う以外は、冷静に見て、驚くということは、今年は、少ないです。ただ、若い岡山出身の選手も、複数いて、本当に残念です。

そうしてみると、自分で、引退が発表できる選手は、ごくわずかですし、ましてや引退試合など行ってもらえる選手は、ひとにぎりです。

特に、最近トライアウト合格者の活躍や独立リーグから、NPBに戻って活躍する例が、比較的少ないため、トレードもされずに戦力外通告というのは、本当に厳しいと思います。

議員は、どうなのかな・・・。

 

【コツンと音がする その6】

だんだんタガが外れていく私は、かねてからコンプレックスの一つである運転免許をとろうと考えました。もちろん、日中に教習所に通うのは難しく、個人教習というものあると知り、電話帳で雰囲気で、M先生にお願いすることになりました。
桂ざこばにちょっと似ている鬼より怖いM先生に、今から思うと、誰からの紹介でもなく、よく電話を掛けられたものです。新聞配達が終わる6時半に迎えに来ていただき、朝っぱらから、牧石の旭川の河川敷の練習場で、教習を受けました。
M先生からすると、歴代屈指のセンスの悪さのアンポンタンということなのですが、今から思うと、私は朝からクタクタではありました。
いずれにせよ、郡の運転免許センターで、試験官は、現職警官で、一発試験という実地試験を受けなくてはいけません。教習所では、それが免除ですが、本当は、一番免除してはいけないところだとは思います。
私は、ダメじゃないかとM先生も諦め気味でしたが、3回目でなんとか合格しました。
ただ、不合格になって、締め切り堤防をトボトボ歩いて帰る情けなさというのは、今も忘れられません。

街中のドライバーの運転を見て思うに、巻き込み防止のキープレフトがほとんどできておらず、すぐに、小渋滞を起こさせます。スロ―インファーストアウトの基本ができておらず、エンジンブレーキを使わず、やたら、ブレーキを踏みます。後続車に絶対に急ブレーキを踏ませないというのが運転の基本ですが、ウインカーでできるだけ早く自分の今後の行動を知らせるということすらできていません。後続車の表情を常にバックミラーで、確認する必要があるのに、車内のミラーは、明後日の方向を向いています。マナーというよりも、基礎の問題で、M先生なら激怒、一発試験など絶対に通るわけがありません。
ともあれ、今、私は、ゴールド免許。
ただ当時は、履歴書には書ける免許はとったものの、そもそも自動車がありませんでした。

新聞配達の特権でも何でもなく、そういうことは、本来やってはいけないのですが、余っていればということで、讀賣新聞とスポーツ報知は、ちょっと持ち帰っておりました。
ただ、朝のマンションなどの集合ポストというものは、いろんなものが投函されていて、
それが、不要ということで、隅の段ボール箱にどんどん捨てられていましたので、それを時々貰って帰り、楽しんでおりました。
なかでも、『リビングおかやま』と『こんにちは新聞』は、いくらも拾えました。軒並み配ったら、配達料いくらぐらいなのかなぁというのが、一番の関心ごとではありましたが、持ち帰ってちゃんと読むと、『リビングおかやま』って面白いなぁと純粋にそう思えました。
当時13万8000部。無料で配布する。その影響力や仕組みというのにも、関心がありました。

そして、秋の朝、『リビングおかやま』に、営業社員募集という文字を見つけました。当時、母方の祖母が亡くなったりする中で、言葉は不適切ですが、ドタバタの中で、履歴書を送りました。というか、会社が田町だったので、郵送ではなく、締め切り日に届いた前提で、翌朝未明にポストに入れといたというようなエイヤーでした。

それから、入社試験と面接のようなものがあって、今から思うと、多分、履歴書の学歴を見ての勘違いで、間違って採用されたのだと思います。見方によれば、岡山ではすごいエリートに見えなくもなく、ただ、スーツもネクタイも、まともにもっていない有様で、とてもひどかったっと思います。

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会社組織に初めて入れて頂いて、憧れの社会人の片隅において頂いた秋。当時の社長さんから、給料いくらほしい?と言われて、まともな社会人経験がないですからねぇと言ったら、新卒扱いになり、これはやっていけるのかな?と思ったスタートではありました。

多分、会社利益には貢献しないダメ営業マンだったと思いますが、私が吸収したものは、日々本当に大きかったと思います。それは、乾ききったスポンジを水に浸したような感じです。
当時の私は、こうでないといけないとか、こうあるべきとか、一切考えていませんでしたから、本当に楽でした。何も考えていないわけではないけれど、とにかく来る話は、全部受けました。

結果的には、岡山市民劇場の会員なのに、営業をかけ、あんまり効果がなかったので、顰蹙を買った気がしないでもないのですが、その市民劇場の事務局で、「私は女優よ」という今までにあったことがないタイプの女性に出会いました。東京でなにかしていたらしいのですが、突っ込みどころ満載の同級生は、私のことを「真さん」と呼びました。「真さんも芝居をやんなよ」と誘われるままに、あとで気が付いたのですが、岡山の老舗の「劇団ひびき」に入りました。中学生以来の演劇ですが、数回、舞台に立ったりもしました。
なにしろ、金曜日の稽古の後、表町のなかむらで、ワイワイと焼き鳥を食べたりすること自体、学生時代にすべきことだったような気がして楽しくて仕方ありませんでした。
それから、切ないような申し訳ないようなこともあったのですが、「真さんには悪いけれど、私、結婚することになったんだ。」と言って、女優は、一足先に劇団を去っていきましたが、今から考えても、特に、全然悪くないんだけど・・。

それから、日曜日のスーパーで、試食品の実演販売やらない?という男性マネキンの話もあって・・就業規則に触れる話です。

人間関係でどうのというほど、当時の私は、繊細ではなかったし、いろいろあるがなというスタンスでしたから、悩むことはありませんでいた。良い意味でも、いい加減でした。
ただ、あくまで、新聞社でありますから、編集は編集で、強い誇りを持つことは当然にしても、しばらくして、一ページが幾らでといろいろ計算すると、行き詰まるような気がしました。そういうときは、Kさんのところに相談に行くのですが、Kさんの答えは、いつも決まっていて、「佐藤さん、あまいねぇ。新聞配りなさい。」で・・就業規則に触れる話です。

司法試験の本などはそのままに、煮え切らないところもあったのですが、特に、事業社の事業の応援は、楽しかったです。
奥津のオートキャンプ。同僚の車で寝ましたが、子どもたちを喜ばせようと、ダム付近でクワガタムシを拾いまくりましたが、段ボール箱に入れていたため、全て脱走。

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島根原子力館おもしろわくわくツアーでは、「リビングおかやま」が、どれだけ読者の方に愛されているかを知りました。その頃には、俺、もてるんちゃうんかと勘違いできる余裕すら生まれていました。

 

 

翌年の夏。フジサンケイグループの研修に、わざわざ出して頂いたときに、敢えて、大隈講堂の前で野宿しました。一晩中、大隈講堂のボンボリ顔を見ていたら、子どもたちのラジオ体操が始まりました。あの時のように、何も答えてくれませんでした。やっぱり、喜んでくれていないよな・・・。

政治の世界へ繋がる扉が、開き始めていることに、その頃は、全く気が付いていませんでした。

10月3日(月) 断捨離

本来は、決算特別委員会の2泊3日の県外調査で、東京、福島に行かねばならないのですが、残念ながら見送りました。県外の調査地でも、わりと積極的に発言する方ですし、単独行動で、朝夜、行方不明になったりするのですが、体力が、今は、ありません。悔しいけれど、仕方ありません。
しかし、県外調査の写真の整理もしているのですが、3泊4日の常任委員会と2泊3日の特別委員会を毎年、18年も続けると、さすがに行っていないところの方が、珍しくなってきます。

今日は、佐藤真治被害者友の会会長のたいへん無理を言って、朝から、事務所の断捨離。と言っても、気持ち的には9割以上は捨てます。
想念で、澱んでいた感じが、少し風が抜け出しました。現状を考えても、現在地で、事務所を維持するのは、少し難しいなという気だいたしております。

あるお店に行ったら、「お父さんどうぞ」「お父さんこちらです」とか、気安く言うので、誰が、お父さんやねん?と思ったのですが、冷静に考えると、51歳だし、ここのところ、全面的に疲れを表現しているし、まぁそうなんだろうなと思いました。
で、冷静に考えると、私は、52歳でした。だめだ、自分の年も、分かんねぇ!

【コツンと音がする その5】

自分が、なにかおかしいと確信したした年の暮れから、年明け早々、親友が結婚しました。首尾よく、岡山の超安定企業に就職し、しかも、お相手は、学生時代からお付き合いのある美しい方で、立派なご両家に、さながら、会社の品格が溢れ出るような立派な披露宴でした。新婚旅行の見送りに、会社の方々に紛れて、駅まで行きました。
そこで、もはや嫉妬するというレベルではなかったのですが、一番強く感じたのは、ちゃんとやっていれば、ちゃんとしたことになるになるのに、なんで、私は、わざわざそれができないのか?ということです。普通のことが、なんで普通にできないんだ?誰かと比較してどうというよりも、単純に自分が、おかしいんだなと思いました。

いわば20代半ばのプータローということ自体が、あるまじきことで、せめていくらか稼ごうと思いました。当然のことです。
ただ私の中で、常に気になっていたこと。これをやれば、変わるんじゃないかなと思っていたのは、実は、新聞配達でした。野田屋町の読売中央ICの前を通るたび、配達員募集の文字が気になっていました。なんの根拠もなかったのですが、それができれば、私は、変わることができる。

2月のある日、新聞配達所の扉をあけました。「新聞を配らせてください」。暗闇の中、扉が開きました。

当時、責任者のKさんは、たいへんお元気で、あまっちょろそうな青年が、いきなり扉を開けて、「お金を払ってもいいから、新聞を配らせてください」と訳が分からないことを言いながらやってきたという印象だったようです。なにしろ、女手一つで、息子さんを2人育てられていて、40歳ぐらいだったと思いますが、Kさんから見ると、なにしろ私は、だらしない生き物だったと思います。
しかし、まぁ何が凄いかというと、「それじゃ明日から配りましょう」ということになったことです。原付の免許は持っていましたが、ペーパードライバー状態でしたし、スーパーカブは乗ったことがないし、結局、Kさんとその日の夕方、岡ビル前遊園周辺をグルグルと回って、バイクの運転の練習をしました。もろに、小学6年生まで住んでいたところですが、誰も私を知らなくなっていたので、面白くもありました。

そういえば、原付免許は、友人たちと鮫洲の運転試験場に受験に行ったのですが、筆記試験後、一人だけ立たされました。「あなただけ満点です。」というところまでは、非常に格好良かったのですが、その後の自治のふざけた態度に、「お前、帰れ!」と言われて、平謝りの末、許してもらい免許を頂戴しました。やはり、なにかが、ダメなのだと思います。

そして、Kさんに、明日朝何時に来れば良いですか?と聞いたら、「あ、2時半ね~。」でした。平和町から、野田屋町ですから、出勤時間は、3分です。一人で配るようになって、慣れてきたら、結局、3時40分出勤になりましたが、まずは、Kさんの後ろをバイクでついていきました。当時は、10区あって、私の担当は、2区でした。学区で言うと、南方学区と弘西学区です。

讀賣新聞に加えて、スポーツ報知は、もちろん、日本証券新聞とか日本繊維新聞というのもありますし、こういうのは、会社用ですから、帯で包まなくてはいけません。また、雨が降ったら、明らかに濡れるような新聞受けがあり、そういう時は、新聞をビニール袋に入れなくてはいけません。なにより、当時は、折り込み広告は、手作業で挟み込んでいましたので、出発するまでに、ひと作業もふた作業もありました。
地図をもらって、最初は、オリエンテーリングのようだったものが、いずれ、体がリズムで覚えてきます。南方の国鉄官舎が、一番たまりませんでしたが、階段も小走りで行けるようになります。どこのアホ犬が吠えるのか、どこのポストが、指を切るような危険があるかも、分かるようになります。

新聞配達を始めた2月というのは、とても良い季節でした。もちろん、出勤までは寒いですが、走りだせば、すぐポカポカあたたまってくる。なによりも、少しづつ、春を体で感じ、一年で一番美しい3月の夜明け、日の出には、空に向かって叫びたくなります。朝早くて辛いとかいうことは、まったくなくて、毎朝、最も新しい太陽の光を受けました。
で、結局、正確なことは書きにくい事情があるのですが、軽く1年以上、新聞配達を続けました。
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当時の配達所には、様々な方がおられましたが、私自身がそういうことですから、詮索する気は全くなく、よくわかっていな部分もあります。親元をとにかく離れたくて頑張っている学生が、パチンコにはまっていたり、アルコール中毒で、来られなくなる方もおられましたが、皆さん、それぞれの事情で頑張っておられたのだと思います。
私も何かあったら、また、新聞配達から頑張らせて貰おうと思っていたのですが、残念ながら、今の私には、朝の街を駆けまわることができません。

それにしても、讀賣新聞は、学生時代には、本社で、お茶くみのようなバイトをしたりしておりました。正確に言うと、ラジオを聴きながら、コンパクトにまとめて、プロ野球の速報をなんかのテロップに流すというような、なんかいまだに、謎の仕事でしたが、ニューメディアの初期だったと思います。
社員食堂で食事して、帰りは、大浴場に浸かったり、比較的暢気でしたが、東京サミットの頃、不審人物で、カバンを開けさせられ、中に、洗面用具しか入っていないということもありました。
そういえば、後楽園球場の切符のもぎりのバイトでは、讀賣や日本ハムの試合をよく観たものですが、縁あって、讀賣新聞を配るようになっても、讀賣ジャイアンツのファンになることはありません。

多分、春だったと思いますが、配達が終わって早く帰りたいもので、桃太郎大通りを信号無視して渡りました。なにかいったん平和町に戻っていたのかもしれません。その際、後ろのスーパーカブの警察の方に、捕まえて頂きました。
朝6時ごろ、「わしの目の前で、容赦できん!」ということでしたが、反則金が、8000円。
当時、1件月当たり250円で、200件。5万円が、全てでしたから、本当にきつかった。悪いのは、もちろん私ですが、いまだに思うことがあります。誰を傷つけるでなく、感謝される仕事。1件1日10円にもならない積み重ねの仕事。
お金を稼ぐということのたいへんさ。集金も、少しだけしたことがあるのですが、私には、もちませんでした。私服で、会社のカウンターで、新聞代を集金する、いつ帰るかわからない学生を何度も待ちながら、会えても、現金がない。それでも、1件集金できて、やっと100円です。自動振り込みにする自振とか、長期契約を取るしばりとかは、もう少し高かったですが、なかなかそういうことにはなりません。

そうこうするうちに、1年で、もっとも辛い梅雨がやってきました。配達員がいくら塗れようが、新聞は、絶対に濡らしてはならないのです。なんだかんだで、通常の1.5倍の時間と手間暇が、毎日かかる季節です。

ある梅雨の朝。新幹線の側道沿いに出る交差点で、私は、はじめてバイクで転倒しました。そこら中に、新聞がぶちまけられて、びしょびしょになりました。涙がどんどん雨で流されました。
コツンと音がしました。・・・聞こえました。

10月2日(日) 暑い青空

 青空が見えたというよりも、ひさかたぶりに暑い日でした。
 サーバーがどうだとか思っていたのですが、実は、9月29日で、電話やインターネットサービスが使用停止になっていました。事務処理が、適切に行えないような時期があったため、単純に料金未納で、電話を止められたわけす。日曜日にどうなるものとは思いませんが、いつどうなるのでしょう。
 情けないことは、けっこう多くありますが、これも比較的情けないことです。

 
【コツンと音がする その4】

 それでも、もともと現実逃避には長けていて、違和感を持ちながら、本を読み、いわゆる名画座やビデオで、古今東西の名画を観まくり、青春18きっぷの季節ともなれば、沖縄県以外の日本全国を鈍行列車で旅してまわり、悩みのような青春の苦悩ぶったことを書き綴った大学ノートは、何冊にもなりました。
 あげく、落語というものを知り、寄席に行くことを覚え、柳家さん喬師匠の弟子になれたら良いなぁと本気で思っていました。
 敢えて言えば、典型的なモラトリアムです。それが許されるぐらい幸せだったのです。

 そして、リクルートから分厚い就職ガイドが何冊も届くようになっても、なにか努力しようという意識は、まるでありませんでした。景気の良い売り手市場で、私のようなものでも、一部上場企業から声がかかるそんな時期でした。

 今、就活をしている学生たちや何よりも、専門科に行って、高校卒業後は、就職するという意識を持った学生を見ると、本当に私は、恥ずかしくなります。特に、家庭の事情で、進学をあきらめざるをえない高校生は、いくらもいように。なによりも、連敗を繰り返して、プライドをズタズタにされても、就活を続ける学生からすると、単に客観評価が怖いだけのなんの能力も持たない甘え切った学生でしかありませんでした。
 家業が自主廃業しただの、親の苦労に報いなくてはいけないなどと勝手に不幸を装おうような言い訳をして、その実は、親に甘え切っていたのだと思います。自分の人生にあまりに無責任でした。

 クラスメートは、しっかりと大手に就職しました、高校時代からJRAが好きで、JRAに就職するというのが単純に羨ましかったり、現在、朝日新聞の編集委員で、天声人語を書いているクラスメートもいます。マスコミが一番の王道かもしれません。政治経済学部政治学科で、どの程度、政治の世界に進んだ人間がいるかは分かりませんが、大なり小なり首長であったり、国会議員であれば別ですが、地方議員でことさらの評価を受けるような価値基準ではないように思います。

 いずれにせよ、司法試験の勉強を続けるという、なにひとつ保証もない道を選んで、岡山に帰るという選択をしました。というよりも、単純に東京に負け、早稲田に負け、明らかな都落ちでした。自分勝手な大義に関わりなく、何もできなかっただけのことで、冷静に考えても、全く使える人間ではなかったと思います。それを認めることすらできなかった。

 そこから、しばらくは、本当に辛い日々でした。事実上は、プータローですから、日々、世の中とずれていくことだけは感じました。そして、それを変え得る力を自分は持っていない事が分かっているのに、ダメ出しができない。野茂の脱三振記録以外に、全く楽しみはなく、誰一人知らない岡山の街をぼんやりと歩いていただけです。そういうときでも、声をかけてくれて、草野球を一緒にした高校時代の友人だけが、世の中とのつながりの全てだったかもしれません。

 その頃、食べるという行為自体が、罰当たりなことに思えました。特に、大小関係なく魚がダメでした。変な話ですが、無価値な自分食われる魚と目が合うというということが、苦しくてたまりませんでした。無価値な自分の世の中に対する言い訳だったかもしれませんが、当時、1年で、20kg以上痩せました。

 今に至るまで、精神科にかかったことはないのですが、十分病んでいたと思います。

 そして、ある日、自転車で、側道から出てくる自動車とぶつかりそうになりました。急ブレーキをかけた次の瞬間、あ、どうしてぶつからなかったのだろう?と思いました。たとえ、病院のベッドの上だろうが、お棺の中だろうが、少なくとも今と状況が変わるチャンスじゃないか。・・・この時、はっきりと自分がおかしいと自覚しました。
 その後、雨の中をずぶぬれになりながらついた浦安の図書館で、一冊の心理学の本を手に取りました。もちろん、大学時代の一般教養で心理学は受講しているはずですが、当事者や対象として、素直に自分をとらえることはできませんでした。誰もが、自分のことが、一番わからないのです。
 どうも、これはおかしい、自分が選択してきたことや大切だと考えていたことが、本当に自分の意志によるものなのかどうか。その本には、自分のことが書いてありました。

 しばらくして、どこにも行かないと決めていたしばりを解き、かといって、お金もないので、広島に行きました。帰りたくないので、ただただ歩き回って、真夜中に、電話ボックスの中でへたり込みました。自分がいったいなにをしたんだ?これからどうしたら良いんだろう?とうずくまる中で、コツンと音がしました。
 それは、底を打った音。そして、新しいスタートの始まりの合図でした。

10月1日(土) 今日から10月

10月に入りました。朝からの雨はやみましたが、この週末、青空は見えるのかなぁ・・。
それにしても、今年は岩手国体。選手団の検討をお祈りしますが、昨年は、副議長として、和歌山県での障害者スポーツ大会に出席させていただきましたが、今年の岩手だったら、難しかったかもしれません。

 ここ数日間、たいしたことではないと思いますが、PCのサーバーエラーが続きます。ブログも、コメントは受け付けていないのですが、願わくば、【佐藤真治のこころ】をできるだけ多く書いて、公開しようと思います。

 一方で、facebook ですが、飽きたというよりも、疲れて、当面復活は、全く考えていません。なにしろ、「いつも楽しく読ませてもらっています。」と言われるほど、私は、日々楽しくありません。コメントのラリーも、体調が良い時にやるもので、愚痴を書いても仕方ありません。また、儀礼的なものはもちろん、意外に、誰かのリア充的な話は、特に元気が出ないことも分かりました。プライベートの切り売りをして、無理に、いいね!を作ることもないでしょう。
 そう思うと、不思議なもので、facebook は、一挙に醒めます。

 【コツンと音がする その3】

 大学時代の政治状況と言えば、まさに、バブルの走り、24時間闘えますか?ジャパンアズナンバー1と景気は悪くなく、一方で、中曽根―レーガンのいわゆるロン・ヤス関係も、強固でした。象徴的には、スパイ防止法反対という立て看板が掲げられ、朝キャンパスの机の上には、核マル派と民生と統一協会のビラの3点セットが、いつも置いてありました。
 もともと、新聞学科があったこともあり、朝日ジャーナルの編集長の筑紫哲也氏などは、しょっちゅう来校していたし、いわゆる朝日や毎日の編集委員とか、軍事評論家とかなどの話は、極めて容易に聞くことができました。本多勝一記者の講演を聞いたこともあります。
 若い時代に左翼でないものは、阿呆である。大人になって、左翼なら、もっと阿呆であるという言葉があり、後段が、正しいかは知らないが、ノンポリだと普通に左っぽくなり、週刊金曜日まではいかないけれども、朝日ジャーナル程度は、標準装備として、皆、読んでいたように思います。
 自民党の選挙の手伝いに、他県まで行ったという話をする奴が、本当に変わっていると捉えられました。もっとも、彼自身が、いろんな意味で変わっていたのですが。

 そうなると、住民票も移していたので、岡山の国会議員というのは、全く存じ上げなかったのですが、唯一関心があったのが、江田五月議員でした。帰省したら、駅前の「おはよう730」という街頭演説をひとりで聞きに行ったりしておりました。なにしろ、強大な自民党に対して、超弱小政党が、坂本龍馬よろしく、野党を結ぼうとしていた姿が、なんとも格好よく見えたからです。
 たまたま、関係者には、早稲田の先輩がいたりして、雰囲気も好きだったのですが、かといって、東京で、永田町に行こうとか、全く考えませんでした。単純に、そこまでの関心は、なかったのでしょう。
 冷静に考えると、あのとき、違うことを考えていたら、もっと早く違うことになていたかもしれません。

 今、自民党学生部というのがあったり、インターン制度があったり、時には、選挙に利用され、多分、学生には得難い経験もあるのでしょうが、肝心の政治の根っこの部分で、どういう学びになるのか疑問です。染まりすぎてもいけませんんが、初めから安全な位置にいるのも、どうなのか。
 やはり、政治において一番重要なのは、怒り、義憤だと思います。青春時代に、それが滾っていなければ、最後は、保身を考えるようになるでしょう。

 さて、弁護士にという母の思いは、日増しに強くなっていくように感じていました。実際に、母は、誰よりも頑張って、なにかに夢を託すような気持だったでしょうし、私は、怠惰を責めていました。
 ただ、私は、政治経済学部政治学科です。県議会議員になる勉強をキャンパスで教わった気はしませんが、少なくとも、法学部、商学部、教育学部にも合格しましたが、法を学ぶ法学部を選択していません。もっとも、当時は、生きていれば卒業できる政経学部と商学部と言われており、特に、政経学部は、キャンパスで直接何か教わるよりも、自分で、勉強の方法を考えるという自主自立の精神を持っていました。
 他の誰かがどうというよりも、自分で、オリジナルの道を進んでいくという気概は、今もあるのではないかと思います。

 結果として、2回生になって、夜は、司法試験予備校に通うことにしました。
 ただ、敢えて言うと、法学は、数学に似ていて、どうも文系頭の私には、向いていないのではないか。ということに、すぐに気が付きました。
 なにより、結果論ですが、司法試験の勉強は、良くも悪くも、素直な頭が向いているということ。自分の人生の経験やこだわりや無駄な思考など、何の役にも立たず、シンプルな方が良いということ。それはそうです。現場において、主感たっぷりに、十人十色で、法の解釈をされてはたまりません。それは、独善でしかありません。情はいりません。あくまで、受験に過ぎないと、どのように、切り捨てることができるかの勝負だと思います。
 大隈奨学金を頂戴した極めて優秀な友人が、長年受験していましたが、合格したという話は、いまだに聞いていません。実務に対して、求められている能力が、違う気がします。

 最初から、違和感を感じながら、航海を始めても、ゴールの姿が、想像できませんでした。

9月30日(金) 秋雨

梅雨のようなすっきりしない秋雨が続き、9月が終わります。倦怠感は、どうしようもなく説明できませんが、いったいこれが、中小企業のノルマや責任が課せられた中堅からベテラン、ましてや若手なら、とっくに潰れていたことでしょう。
夫婦別居にして、生活保護を受給するというのが、現実問題最もあり得る手段のような気さえします。

【コツンと音がする その2】

 かくして、偏差値の私立文系の雄に入学した私は、浪人をしたことは差し置いて、謙虚さはありませんでした。
 ただ、エリート意識の薄い、はたから見れば、エリートのような集団の中で、もちろん、東大を落ちて、隠れ受験をする見たこともないクラスメートもいましたが、しかし、より変な意識を持つ奴を「ミスター不愉快」と呼ぶぐらいの健全性はありました。しかし、一方で、なにかの拍子に受かったような現役生がいたり、逆に、なぜ敢えてと不思議な経路をたどり入学した3浪生がいたりしました。
 多種多様な人間がいても、共通するのは、誰もが何かをしたいと考え、はなから早稲田に、強い憧れと誇りを持っていることでした。

 ただそれが具体化されるのは、やたらとWASEDAのネーム入りのスタジャンを着たがったり、クラスメートが、すすき野で、呼び込みに、「早稲田ですから」と断って、激怒されたレベルです。なんか言ってみたいだけ。そう言えば、友人が、ディスコに行って、目の前の女性に、「へい!彼女、野球どこのファン?」と聞き撃沈したと聞き、それなら仲間で、六本木のディスコに行こうという話になったものの、びびって、誰も入れず、六本木のつぼ八で、朝まで過ごしたのも、今となっては、情けない思い出です。慶應なら、行ってたよな。
 あとは、後楽園球場で、切符のもぎりのバイトをやったり、いいかげんな家庭教師や塾の講師をやってみたり、体育会系のグリークラブを夏合宿でクビになったり、わけのわからない温泉サークルで、長瀞峡で、真夜中に花火を飛ばして
怒られるたりする、それなりの大学生活でした。やはり、どこか抜けている気がします。
そして、我々WASEDAは、強いものに与しません。在野精神を発露し、大勢がどうあれ、世間の評価がどうあれ、自分が行くべき道を行きます。

 それでも、ただ、何をやっても、どこかにエリート意識があり、どこかで、なにかをなめていた気もします。
 これは、生まれてずっとエリートをやり続けている人は、どれだけ礼儀正しくても、明らかに持っている選民意識のようなものです。彼らは、対人関係は、踏み込まず、かしこくこなそうとする、こういえば褒められたり、感心されると分かっている、そして、その根底では、やはりどこかで人を馬鹿にしている、軽く見ている、時には、普通の人生経験の不足というコンプレックスを抱えながら、自己肯定感に満ち溢れている姿として、しばしば見受けられるものです。
  しかし、しばしばなにがしかのリーダーに立つそういう人の足を引っ張ることは、さらさらありません。

  ただ、そういう人たちに本当に気がついて欲しいことは、人は誰もが変われるということです。あるいは、変わろうとすれば、そのチャンスがあること。頑張れば、なんとかなること。そしてなによりも、人生の幸せの価値基準は、一つではないということです。

9月29日(木) 9月定例県議会閉会

私にとっては、私史上最低の9月定例県議会が終わりました。直後に、選挙を控える伊原木知事のこの任期最後の議会でありました、4年間を総括的に問うにしても、どこか遠慮がちで、補正予算等も大きく動いていないため、盛り上がる要素が少なかったこともあります。
ただ、私の方は、体調が安定せず、終始熱っぽく、声も出ず、倦怠感に襲われる有様で、初めての本会議の欠席が1日、さらに、遅刻、早退があったことを県民の皆様に心からお詫び申し上げます。
もちろん、委員会は欠席しておらず、今後も意地でも、休む気がありませんが、声が出ないという状況には、本当に思いつめました。

ほかにも少し懸案があり、6日からの知事選挙も、なにか転回が望めるかわかりませんが、思いを県政に反映させるためにも、ともあれ這いつくばってでも、闘います。

【コツンと音がする その1】

今日のような雨の日は、新聞配達の方々が本当にたいへんだと思います。私は、梅雨の朝、新聞配達のバイクで転倒して、泣きながら、びしょびしょになった新聞を拾ったことがあります。

私が、中学2年生位以降、我が家は、陶器屋ではなく、母が起業した昼夜保育園が、メインのようなところがあって、いざ腹をくくれば、男性よりも、女性の方が遥かに強く、こと子どものためとなれば、その命すら惜しまないというのは、肌で感じていました。一方で、どちらかと言えば、それまでは、ただ暢気だった私の思春期は、陶器店がなくなった身内のゴタゴタで、殺伐としたものに染められます。
その中で、身を粉にして働く母の願いは、なぜか私が早稲田大学に行き、弁護士になることでした。それを平然と口にしました。

今にして思えば、ピアノはもちろん、琴が弾ける田舎の大庄屋の娘が、何もしなくて良いと言われながら、続いていれば操業100年を超えている陶器屋の卸に、嫁いできて、陶器屋が廃業。自らが、昼夜保育園を起業して、朝から深夜まで働き続けるというのは、まさしく想定外。おそらく、実家には、詳細も報告せず、難しい身内や親戚の中で、踏ん張ってきた。彼女にどんな夢を描くことができたろう、と思います。

総合選抜になって、一宮高校の分だけ、募集定員が増えて、たまたま県立普通科生徒になっていた私(友人の何人か、中学浪人した)は、純粋に日々遊び呆けており、漫画を描くか、詩を書くか、プラモデルを作るか、自転車による徘徊を繰り返しており、成績は明らかに、後ろの10分の1に、入っていたと思います。私には、自分が何になりたいのか、なんのために勉強するのか、基本的なところで、何もありませんでした。
先生方は、とても熱心で、新設校の生徒は、朝日や操山に負けるなの勢いで、誰もが早くから受験を意識し、必ずしも、明るい雰囲気ではありませんでしたが、私の方は、中学4年生、中学5年生と揶揄されつつも、元気に遊んでおりました。

そういう、バカ息子に対して、何が当時、そんな夢を毎日のように、念仏のごとく言わしめていたのか、そもそも、なんで早稲田だったのか、いまだに謎です。
一方、弁護士の方は、分からないでもない願いでした。詳細は書きませんが、愛や暴力では、どうしよもならない、最後は、法なんだろうと、当時の私も、肌で感じていましたから。
そうして、何もできないのに、刷り込みだけが行われた主体性のない人生に無責任な人間になることを甘受していったのは、外ならぬ私自身です。
かくして、一部の友達とは、順調に補習科一期生になるんだろうと思っていた私は、当時のセンター試験で、素晴らしい成績を取り、にわかに、岡大特美に志望変更し、二次試験で、眠っている己の芸術的才能の覚醒に期待しましたが、自分でも凄く下手で、美術をなめているとしか思えない所業で、遅まきながら、当時の関係者に心からお詫びを申し上げます。
しかし、そういう状況ですら、念仏は続きました。

もはや国立大学に行けるような多くの課目に手を出すことにはなから限界を感じ、私立文系専願で、本当に全く記憶のない無反省な補習科1期生でしたが、なんの拍子か分かりませんが、東京六大学の某文学部だけ通っていました。
しかし、なぜかその時には、私は、早稲田大学に行く気になっていました。
バブル前のそれなりに景気の良い時期ではありましたが、兄と仕送り時期が被ることを大義に、わざわざ2浪目の道を選びました。それは、もう説明のしようがありません。受験の日、10号館から眺める雪を冠に被った大熊講堂。どんよりと曇る空の下、大鷲の跳躍前の緊張感が、張り詰めていました。
『ブルースブラザース』で、教会で、「ロックだ!」と光が差し込み、ジョン・べルーシが跳ね回るあの瞬間。「あぁここに帰ってこなくてはいけない・・・」魂の底からそう思えたのです。

宅浪が条件でしたから、かくして、中央図書館や県立図書館をベースに、中学浪人したのに、またここで浪人したドジな友と切磋琢磨しながら、生れて初めて、ちゃんと勉強しました。小学6年生までは、どちらかというと勉強できる方でしたが、なにしろ遊び呆けていた分、余裕がありました。
一日、10時間から14時間、単語のや文法のド基礎から勉強しているうちに、英語など、偏差値が、25伸びたりしました。誰に教わるというより、有名な予備校のテキストをかき集め、繰り返しただけです。
なお、私の集中の仕方が、いかにいかれたものであるか、その姿を見ずして、単純に時間で、測れるものでは、ありません。
やはり、受験勉強には受験勉強のやり方があります。少なくとも、当時は。合格体験記を読み、最大公約数的に良しとされる受験参考書を集め、それをどうやり通すか考える。人間の集中力は、1時間が続かないことを前提に、課目ではなく、英単語や漢文や日本史や文法や漢字や構文に分けて、飽きが来ないようにグルグル回して、数か月で終わる前から、第二陣が追いかけ、グルグル回す。
図書館における当時のいでたちも、尋常ではありませんでした。ながら勉強などというのはありえません。音をたいへんに気にしていたので、長さや密度において、もっとも効果的な印鑑を耳栓代わりにさしていたのですから。

効率的に時間を使い、自分を律することができるという意味においては、やはり、偏差値というものは、それなりに意味があるかもしれません。限界だと思えるまで勉強したことがない者に、偏差値を語ってほしくないところはあります。
ただ、その高さは、なにかの代償によるもので、敢えて言えば、少し欠落しているものがあるかもしれません。少なくとも、他人への思いやりや優しさとは、比例していません。

いまだに、大学の受験勉強というのは、本当はたいしたことがないいんじゃないかと思うのは、あんまり家族的に、金銭関係など問題がなくて、しっかりしたお宅のお子さんならば、高校から2000時間の勉強で早稲田に、4000時間ぐらいのお勉強で、東大には行けるんじゃないか、という「疑い」があります。あとは、余計なことに捉われず、時間をうまく割り振りできるかどうか。それだけのことなんじゃないかな。
ただ一方で、その間は、少なからず人間性を失うなぁと思います。私は、この年の記憶は、勉強以外にありません。にもかかわらず、ご幼少のみぎりから、競争に晒す社会に放り込む必要があるのか・・・。今の子どもたちを見ていると本当にかわいそうになります。どんな思い出があるのかな。

大切なのは、やるべき時に、本当にやる気と力が引き出せるかどうか。受験勉強に限らず、高校の先生方は、それが、一番の仕事なのにな。方向性を見失った県立普通科生は、意外に多くいるかもしれません。少なくとも、中学、高校の先生が、私を教え子というのは、少し憚られるかもしれません。糸が切れた凧が、空中で、でたらめに旋回していただけで、行く先は、本人すら分かっていなかったのですから。

結局、私立文系最難関の政経学部政治学科をはじめ、軒並み合格はしたのですが、正直なところ、やや燃え尽きた感があり、目標を見失う中、憧れのキャンパスに踏み出しました。
時は、バブル前夜。
しかし、「あんたが、弁護士になってくれたらえええのになぁ」という言葉は、東京までついてきました。

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9月28日(水)休会日

本日も議会休会日で、明日が閉会。晴天よりも、雨空に今は助かっているところもありますが、今年は本津に異常な天気です。梅雨からここまでで、体調を一挙に崩された方が、多いかもしれません。

【友 その3】

結局は、友達というと、少なくとも、議員になる前から友達だった人のような気がします。そこには、利害関係はなく、一方的に浴びせられる言葉に反論しないこともなければ、頂戴した恩に対して、たとえば、金銭に換算して、まったく返せないと怖くなったり、苦しむこともない。温厚で、何を言われても、笑っているような姿を演じることもなければ、おとなしいなどと勘違いされることもありません。

特に、単純に同級生というわけではなく、何十年も付き合ってきた高校時代の仲間。わびさび軍団という、人生の酸いも甘いも、青春時代から感じていた多分、地味目な仲間。彼らは、ある意味、どっぷりと甘えにかかる私という存在の被害者ではありますが、逆に、なにかあれば、こちらもベストを尽くそうと考える仲間。なにより、私が、議員であろうが、なんであろうが、決して付き合いは変わらないでしょう。
別に社会において、際立ってどうということなく、しかし、いろいろ悩みを抱えつつも、普段を生きている仲間。なんの見栄もありません。

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そして、中学時代からの親友。思春期の最も大切な時間、私にとっては、家業が自主廃業をしてからの中2からの高校まで続く苦闘の日々の中で、慰め合うのではなく、むしろ傷つけ、傷つけあった親友。ライバルであり、最高の理解者です。そして、2人しかいない彼らとは、頻繁に会う必要はありません。本当に大切な時に、会うことができれば、いつだって、時間も空間も、あの頃に戻ります。

だから、先日、本当に久しぶりに、東京で親友に会いました。どこにだろうと、いつだろうと、相変わらずです。
そして、「お前さんが、どう思おうが、人生を失敗しているとは思わない。なによりも、佐藤真治という花火が、こんなところで落ちるとも思えない。」という彼の言葉は、嬉しかったです。そこに、承認と信じてくれる言葉があったから。

友達、友人、親友、いろんな言葉を人は使いますが、いくら多く知り合いがいても、友は、なかなかできるものではありません。結局は、利用しあったり、揺さぶったり、試したり、する友は、いません。
そこに、必要なのは、信じているという思いです。そして、そういう関係は、生涯に、いくらでも築けるものではありません。

あっという間に、人は手のひらを返します。正直に書いて、本当に心から信じられる人が、どれだけいるでしょう。

それにしても、そういうことを飛び越えて、気の毒な友がいます。まさに、佐藤真治被害者友の会会長。彼が、いったい前世にどんな悪いことをしたというのでしょう。

9月27日(火) 休会日

本日は、議会休会日。

お薬を山のようにお土産に頂戴し、これを1か月かけて全部腹の中に入れるのかと思うと、洋々たる未来が開けてくる気がします。もはや未知の航海のようなものです。 特に9月定例県議会は、本当にひどかったです。新たな薬の副作用に苦しみ、初めて、一般質問を一日欠席してしまいました。本会議の欠席はこれが初めてです。しかも、議場に座っているだけでも、脂汗が流れ、早退をやむなくされた日もありました。 なによりも、声が出ないというのが、致命的で、予定していた一般質問登壇を取り下げることになりました。

詳細は書きませんが、それ加えて、厳しい事があります。

 

もっとも、こんなことは初めてでもありませんでした。昨年の副議長の時は、我ながら見事に調整していただけのことです。なにより、秘書課の方々には、本当に良くして頂きました。元気そうだなと言われるのも、そう見えるよう努力していただけのことです。その前の年は、単純に無茶をしていただけのことです。

様々な副作用を経験してきましたが、それを熱く語ることはまずないでしょう。ただ、何とも言えない倦怠感だけは、説明のしようもありません。一仕事済んだら、自家用車の中で、ひっくり返っていることは、しばしばです。そういう時に、電話を頂戴しても、まず出られません。

果たして、こういう体験が県政に還元できるのかどうか。ほとんど使わなかった健康保険を使い、社会に負担をかける日々。ただ、同じような状況に苦しむ方がいるとしたら、これ以上、ともに頑張りましょうなどと言えませんが、それでも、生きていきましょうとエールを送らさせていただきます。

奥井亜紀=『限りなき旅路』

 

 

【友 その2】

私は、中学や高校時代からの友人には、これでもと言わんばかりの岡山弁です。心を開いているというよりも、それが、自然体です。「おめぇ、なんしょんなら?」と言うのが、友達です。少なくとも、中学高校時代の友達の誰一人として、地方議員になるサトシンの姿など想像しておらず、お坊ちゃん育ちのエリートが、議員になったんだろうなどと勝手に想像する、それ以降の人とは、友達になることは、難しいと感じています。
最後は、議員のくせに、選挙に出るのに、という言葉が来るならば、腹を割って話せるような対等な人間関係など期待しようもありません。
おそらく、「業界」に入って以降、「おめぇ・・」と言える人間関係は、築けていません。

 

ただ、もしも、もっと早く自分をさらけ出せたら、きっと岡山青年会議所では、「おめぇ」というかどうかは別にして、もっともっと友達を作れた気がします。議員でなく、家業の陶器屋で、入会できていたらと悔し涙を流すようなこともしばしばありましたが、よく考えれば、私は、次男ですし、両親は、兄と一緒に家業を継ぐことは、決して許していなったと思いますし、議員でなければ、入会などさせて頂けるわけもありませんでした。
ともあれ、職種や年齢の関係なく、大きく叩けば大きく返ってくる稀有な団体で、5年のうちの最後の1年が、もっと長ければ、状況は大きく変わっていただろうなと思います。
単純に、私が、お酒が好きならなぁ・・。ともかく夜の街に出ること自体が、嫌いでしたし。

 

そして、全く別のものとして、消防団があります。詳細など書けるはずもありませんが、
家族ぐるみで、また無茶をして、楽しい思い出しか、浮かんできません。利害関係も何もない異年齢の集団ですが、いまも帰っていける場所として、愛情を持っています。

 

あるいは、表町商店街。

 

こうした例外的なものを除いて、結局は、議員として、友達であろうが何であろうが、単純になにかのメリットを求められているのだと思います。
そして、女性よりも、男性の方が見切ることが多いです。利害関係の中で生きる男性は、誰も私の健全な成長や家族の幸せを祈っていませんし、疫病神のような者と付き合っても、見返りがあるわけでなく、いろいろあって当然でしょう。

そもそも利害関係があるから友達として付き合うわけでなく、友達でないのですから、利害関係で判断するのは、むしろ当然のことでしょう。友達の代わりはいないけれど、議員は私だけではありませんし。