10月1日(土) 今日から10月

10月に入りました。朝からの雨はやみましたが、この週末、青空は見えるのかなぁ・・。
それにしても、今年は岩手国体。選手団の検討をお祈りしますが、昨年は、副議長として、和歌山県での障害者スポーツ大会に出席させていただきましたが、今年の岩手だったら、難しかったかもしれません。

 ここ数日間、たいしたことではないと思いますが、PCのサーバーエラーが続きます。ブログも、コメントは受け付けていないのですが、願わくば、【佐藤真治のこころ】をできるだけ多く書いて、公開しようと思います。

 一方で、facebook ですが、飽きたというよりも、疲れて、当面復活は、全く考えていません。なにしろ、「いつも楽しく読ませてもらっています。」と言われるほど、私は、日々楽しくありません。コメントのラリーも、体調が良い時にやるもので、愚痴を書いても仕方ありません。また、儀礼的なものはもちろん、意外に、誰かのリア充的な話は、特に元気が出ないことも分かりました。プライベートの切り売りをして、無理に、いいね!を作ることもないでしょう。
 そう思うと、不思議なもので、facebook は、一挙に醒めます。

 【コツンと音がする その3】

 大学時代の政治状況と言えば、まさに、バブルの走り、24時間闘えますか?ジャパンアズナンバー1と景気は悪くなく、一方で、中曽根―レーガンのいわゆるロン・ヤス関係も、強固でした。象徴的には、スパイ防止法反対という立て看板が掲げられ、朝キャンパスの机の上には、核マル派と民生と統一協会のビラの3点セットが、いつも置いてありました。
 もともと、新聞学科があったこともあり、朝日ジャーナルの編集長の筑紫哲也氏などは、しょっちゅう来校していたし、いわゆる朝日や毎日の編集委員とか、軍事評論家とかなどの話は、極めて容易に聞くことができました。本多勝一記者の講演を聞いたこともあります。
 若い時代に左翼でないものは、阿呆である。大人になって、左翼なら、もっと阿呆であるという言葉があり、後段が、正しいかは知らないが、ノンポリだと普通に左っぽくなり、週刊金曜日まではいかないけれども、朝日ジャーナル程度は、標準装備として、皆、読んでいたように思います。
 自民党の選挙の手伝いに、他県まで行ったという話をする奴が、本当に変わっていると捉えられました。もっとも、彼自身が、いろんな意味で変わっていたのですが。

 そうなると、住民票も移していたので、岡山の国会議員というのは、全く存じ上げなかったのですが、唯一関心があったのが、江田五月議員でした。帰省したら、駅前の「おはよう730」という街頭演説をひとりで聞きに行ったりしておりました。なにしろ、強大な自民党に対して、超弱小政党が、坂本龍馬よろしく、野党を結ぼうとしていた姿が、なんとも格好よく見えたからです。
 たまたま、関係者には、早稲田の先輩がいたりして、雰囲気も好きだったのですが、かといって、東京で、永田町に行こうとか、全く考えませんでした。単純に、そこまでの関心は、なかったのでしょう。
 冷静に考えると、あのとき、違うことを考えていたら、もっと早く違うことになていたかもしれません。

 今、自民党学生部というのがあったり、インターン制度があったり、時には、選挙に利用され、多分、学生には得難い経験もあるのでしょうが、肝心の政治の根っこの部分で、どういう学びになるのか疑問です。染まりすぎてもいけませんんが、初めから安全な位置にいるのも、どうなのか。
 やはり、政治において一番重要なのは、怒り、義憤だと思います。青春時代に、それが滾っていなければ、最後は、保身を考えるようになるでしょう。

 さて、弁護士にという母の思いは、日増しに強くなっていくように感じていました。実際に、母は、誰よりも頑張って、なにかに夢を託すような気持だったでしょうし、私は、怠惰を責めていました。
 ただ、私は、政治経済学部政治学科です。県議会議員になる勉強をキャンパスで教わった気はしませんが、少なくとも、法学部、商学部、教育学部にも合格しましたが、法を学ぶ法学部を選択していません。もっとも、当時は、生きていれば卒業できる政経学部と商学部と言われており、特に、政経学部は、キャンパスで直接何か教わるよりも、自分で、勉強の方法を考えるという自主自立の精神を持っていました。
 他の誰かがどうというよりも、自分で、オリジナルの道を進んでいくという気概は、今もあるのではないかと思います。

 結果として、2回生になって、夜は、司法試験予備校に通うことにしました。
 ただ、敢えて言うと、法学は、数学に似ていて、どうも文系頭の私には、向いていないのではないか。ということに、すぐに気が付きました。
 なにより、結果論ですが、司法試験の勉強は、良くも悪くも、素直な頭が向いているということ。自分の人生の経験やこだわりや無駄な思考など、何の役にも立たず、シンプルな方が良いということ。それはそうです。現場において、主感たっぷりに、十人十色で、法の解釈をされてはたまりません。それは、独善でしかありません。情はいりません。あくまで、受験に過ぎないと、どのように、切り捨てることができるかの勝負だと思います。
 大隈奨学金を頂戴した極めて優秀な友人が、長年受験していましたが、合格したという話は、いまだに聞いていません。実務に対して、求められている能力が、違う気がします。

 最初から、違和感を感じながら、航海を始めても、ゴールの姿が、想像できませんでした。