11月7日(月)

外は快晴なのに、いったい人間は、どれだけ寝むらるのか、試しているような日。クリントンもトランプも朴大統領も、TPPも、豊洲移転問題も、もともとTVを見ないだけに、もうごちゃごちゃ。そもそも、NHKの連続小説の主人公が、誰か分からず、登場人物が、皆、同じ顔に見えて、うんざりします。

 

【どうでも良い話】

 

小学校の中学年の頃だとは思いますが、ハンドベースボールが、無茶苦茶流行りました。通称ハンベー。

自分の中でも盛り上がりすぎて、外野を守っていて、トイレに行くのもなんなので、校庭の茂みで用を足しました。すると、校内放送、「赤シャツで佐藤君、赤シャツの佐藤君、すぐ保健室まで来なさい。」と呼び出されました。ど根性ガエルの赤シャツでした。

保健室には、恐怖のF先生。それに、M先生がおられ、「校庭で、立ち小便するような奴は、附属学園始まって以来じゃ!」と激怒されました。

 

これを家に帰って母に話すと、なんでも、一番最初は偉い!と、かえって褒められました。規範意識とは逆行する話。さすがに、それ以来、校庭で、立ち小便はしていません。

 

11月4日(金)

ともかく声が出ないということもあり、連絡がつかない状況を心からお詫び申し上げます。まさに療養中であるということで、どうかお許しください。

 

【秘書気質 13】

 

11月3日(木・祝・文化の日・憲法交付70年)

文化の日。秋空が広がる病院の窓。寝てようか、起きてようかで、やっぱり考える静かな時間です。点滴が落ちるのを眺めながら。

 

【秋だなぁ・・・】

 

単純なことほど伝えられていないことに気がつきます。

いつのまにか感謝であったり、愛情であったり、本当に空気がそこにあるように、当たり前になって、伝えていない奥底の気持ち。

もう間に合わないかなと思ってみたり、まだこれから、ここからが一番大切なのだと思ってみたり。

愛されたい、認められたいという気持ちが、自分はこんなにも強いのに。

伝えられなければ、分からない。伝えなければ、伝わらない。

 

こんなに無駄な口は持っているのに。一番大切なものに、ありがとうの一言すら、伝えられない・・

11月2日(水)

かくして今日から再び入院とあいなりました。薬を変えるので、状況をみるということですが、いわゆる副作用も、様々なバリエーションを体験してきました。どちらにせよ、ご陽気になるものはありません。

 

【社会的弱者として】

 

入院すると、いったいどれだけ多くの方が動いてくださっているのだろうと実感します。

特に、勤務医の先生は、本当にたいへんで、私には、とても勤まりません。そもそも血や数学が駄目で、子どもの頃から医者になりたいとは一度も思ったことが無いのですが、医療関係者の直接、命に関わる仕事は、本当に尊いです。

まさに私は、リアルに生き死にですから。

 

一方で、病人や障害者が、どれほど弱い立場かというのも、身をもって強く感じます。

パラリンピックは、障害のある方々にも、素晴らしい力があるんだと知らしめますが、

アスリートは、本当にごく一部の方で、誰でもが、そんな力があるはずもありません。

現実問題、我々のような内部障害者は、スポーツ自体が難しいです。

一方で、絶対に必要な点字ブロックも、車椅子には難所にもなり、数cmに苦しむことも珍しくありません。障害者が街に出る、そのこと自体が大冒険で、やはり誰かの手を借りなければ、やっていけません。

そもそも就労や現在の仕事の継続など、本当に厳しい現実があります。

 

体力や健康は、本当に重要ですが、失われるものです。あるいは突然に、特に、年をとれば誰でも。

 

 

一方で、岡山市内では、総合病院が充実していて、選択できるわけですが、地域によっては、そうもいきません。この医療の偏在と言うよりも、県全体の底上げをどう図っていけるのか。

病院に掛かっていない人間など皆無に思えるぐらいに患者や利用者は多く、医療、介護、保健従事者も多くおられ、いまや健康保険を食い散らかすような私としても、社会保障制度の維持そのものも、不安です。

教育と産業振興に力点を置くにしても、医療、介護、保健、福祉について、県の施策が、前進してるかなぁ・・・。

 

11月1日(火)

自家用車で動いてみたものの、結局、車内で、ぐったりしているような状況でした。なかなかに厳しいものがあります。本当にもどかしい。

 

【3時15分の恐怖】

 

思春期の昔観た『悪魔の棲む家』というB級ホラー映画で、主人公の男性かが、真夜中の3時15分になると目を覚まし暴れまわるというのがありました。それは、『シャイニング』ではなかったと思います。

それ以来、時計が、朝3時15分を指すのが怖く、なんとかこの時間は、寝ていようと思うのですが、金縛りにあって解かれると3時15分とか、怖い夢を見て目を覚ますと3時15分とかが頻繁にある気がします。

実際の統計的には、極端に他の時間と変わらないはずですが、おそらくは、気にしているのでそう感じるのでしょう。

 

特に最近は、寝られないことや真夜中に目を覚ますことが多いのですが、3時15分越えというのは、ひとつの目標になっています。

夜中に起きた時間が、3時15分を越えていれば、あぁ今日も生きている!と感じますし、3時前なら、しばらくは寝られません。

なんかあるなら3時15分というような呪縛から解き放たれたい。

 

そういうときにのためにも、夜を越えるためにも、ラジオは欠かせません。NHKのラジオ深夜便には、かなり助けられていると思います。演芸特選が、もっとあれば良いのに。

 

全く蛇足ながら、ラジオ自体のヘビーリスナーの私が、どうあれ聞こうとするのが、月曜日午後1時からのABC「上沼恵美子のこころ晴天」、土曜日午前11時半からのMBS「それ行けメッセンジャー」、土曜日午後9時からのRSK「和田ラジヲのラジオの時間」、日曜日午後8時からFM岡山の「有吉のサンデーナイトドリーマー」。

これらは、ほとんどややこしい世の中の流れを意識しないのが、素晴らしいです。

我が家には、TVがなく、ワンセグも全く見ませんので、ともかくラジオは、情報源として、いつもつけている感じです。

 

ともかく毎日3時15分越えを目指します。

 

10月31日(月)決算特別委員会日

 

ですが、やはり動けず。とは言うものの、午後から議会事務局へ。

家から車椅子で、エレベータを降りてみたのは良いけれども、車椅子を一人で自動車に積み込む方が、はるかに難しいと分かりました。

議会の車椅子を用意しておいてくださいとお願いしましたが、実は46cm幅もありましたが、用意されていたのは、幅40cmの手押し専用で、自走できないタイプ。あちこちから複数の方が、応援してくださるほど、かえって怖いことにも気がつきました。

1Fのトイレの幅も、車椅子では、かなり狭いことが分かります。やはり2Fの多目的トイレが一番現実的かなと思いました。

なにせ車椅子で出席は、かなり骨が折れそうだと分かりましたが、そもそも自家用車を運転して行くべきかが問題でした。しかし、なんとかなればそうするというより、車椅子に乗らなくて良いだけの話です。

 

【馬場俊英について】

 

好きな歌手には、必ず馬場俊英をあげ、【佐藤真治のこころ】にも、しばしば取り上げ、「四方山話」で、フォルダまで作っているのが、馬場俊英です。

2007年(平成19年)当時、再チャレンジの星ということで、年末のNHK紅白歌合戦に出る歌手がいるというレベルではなんとなく知っている知っているぐらいのことでしした。むしろ、その後、ラジオで、『君はレースの途中のランナー』が流れてきて、これ誰?なんと我々の世代に訴える歌詞を歌う歌手がいるもんだなぁと関心したのが、最初です。

したがって、最初から『スタートライン』ではなく、少しずつ、ネット動画で聞いた曲が、ことごとく当たるという感じで、たまたま岡山市民会館で、コンサートがあるということで、当日券を買い、初めてライブを聞きました。2階には、まだまだ空席がありま

したが、既にお馴染みの曲ばかりで、楽しめました。

それからは、車の中のBGMは、馬場俊英一色になり、わざわざ近県で開かれるライブに、半年に一度は、まるで半年間頑張ってきた証の一里塚のように行きました。野音でピースではなく、初の大阪城ホールの1万人でピースには、当然いきました。

 

闘病からは、岡山のさん太ホールには行きましたが、岡山でのオールスタンディングの会場は、顔はさすは、疲れるだろうで、行きません。遠くでのライブには、もちろん行けません。最近では、CDを聞くことすら珍しくなりました。

 

ライブは体力的な事情があるものの、それ以上にBGMでも聞かなくなったのには、理由があると思います。

ひとつには、多くのファンがそうであるように、混迷の中、『キャンディー工場』の転換に若干ついていけなくなったこと。

さらに、歌詞の中の「僕」が、いつのまにやら共通の僕ではなく、カリスマか宗教家みたいな「僕」になり、例えば、『弱い虫』の僕って誰?と共感を呼びにくくなったこと。

なによりも、私の目の前の現実が、『スタートライン』で泣いて立ち上がるようなレベルを超えてしまったことがあります。『最後まで』と言われてもなぁ・・・。

 

それでも、やはり、馬場俊英の歌は、好きです。『キャンディー』以降でも、『ラーメンの歌』『ギザ10』『風になれ』『ドリームスニーカー』。

『センチメンタルシティマラソン』『ラクロス』というアップテンポの曲は、私の中では、ずっと力が出ますし、『いつか君に追い風が』やや、『君はレースの途中のランナー』『君の中の少年』は、完全につぼにはまります。

以前は、ここぞという場面では、『スタートライン』を泣くために聞いていましたが、歌詞のように、新たなスタートラインをひいても、チャンスは何度も来そうになく、限界超えた感で苦しくなります。

 

実は、ファンがそれを望んでいるのか怪しいのですが、いわゆるヒット曲には、その後、恵まれていません。信者のようなファンや新しい層には、満足感があっても、五十路からの世代が求めている曲は、なかなかに難しいかもしれません。

いろんなニーズには応えたい。自分のやりたい楽曲もある。だからこそ、自分自身と同様に、彼がもがいている中から、なにか新しいものが生まれてくるんじゃないか。だから距離を置いて見ているファンも多いかもしれません。アレンジや表現がどうあれ、救済の曲ではなく、自分の中の力を呼び覚ますための曲。

 

実は、待っているのです。本当は誰かの作る曲よりも、再生できる自分自身の力を。

10月30日(日)

【秘書気質 12】

 

あくまで組織論として、あるいは、親分子分の関係だからこその選挙区貼り付けでしたが、「志願」は、いつのまにか私個人の暴走行為になっていました。

むしろ名誉すら感じられる行為とすら感じていたものが、愛する地元を捨て、選挙当選目当てに、勝手に乗り込んできたという話以上にはなっていませんでした。県連会長からの公の場での直接の説明は無く、何度も組織のために動いたのだと公の場で伝えて頂きたいんだという旨は、伝えていたのに。

 

その後、正式に区割り貼り付けが議会で議決された日に、電話がありました。次回の選挙で、定数4人の南区に、今後、自民党が候補者を2人立てなくてはいけないのだが、ついては、○○さんに、南区で準備をしたらどうかと言おうと思うが、どう思う?という電話でした。

自分の耳を疑うほど、私の中では、理解の範囲を超えていたのですが、確かにそれが、組織論だと思います。私が、組織論で動くのですから、組織を固めるのは当然です。

ただ、その日、私は泣きました。

 

 

これはもうごもっともだと思いますが、地元の市議の先生からは、「勝手に来て通ると思うとるんか。」と責められ、怒る人はいても、褒めてくれる人や待ってくれる人もおらず、ただの裏切り者のようになりました。

どうして良いのか分からず、その夏に解散総選挙が予想される中、私は、候補者のパンフレットに、北区の方には、お詫び状、南区の方にも、やはり挨拶のようなお詫び状を書いたものを入れ、党組織の決定で移動したと説明を書いたものの、自分で、なにをしているのか、さっぱり分かりませんでした。

その後の戦対会議では、北区からも、南区からも声をかけて貰えず、益々意味が分からなくなっていました。もちろん、選挙戦に入っても、決起大会など居場所も無く、党の遊説部隊にいましたが、もはや意味不明の日々を送りました。

これが、私にとって、屁の役にも立たなかった2009年(平成21年)夏、麻生内閣のときに、自民党が大敗北をした政権交代選挙です。緊急戦隊会議で、大泣きしただけ。

引き続いて、9月には、高谷前市長の2戦目を目指す市長選に突入。この時も無力。

 

なにをして良いやら完全に自信喪失していた私は、そこから、原点に立ち返り、幟を立てて、毎朝辻立ちを始めるしかありませんでした。

 

そこから再生をかけて、自民党は、南区の灘崎、小串、甲浦を含む第2選挙区に、一般公募で候補者を募集。暮れまでには、山下たかし候補予定者が、内定しました。

 

年明けに不思議な事がありました。ある新年会で、県連会長夫人の横に同席させて頂いた妻が、「真ちゃんが、なにかグチャグチャ言っているらしいけど、自分で行くって言ったんだからね。」と言われたと泣きながら帰って来ました。

それは、異動費用等に、やれ引越し費用に敷金だ礼金だ、件の挨拶文だで、200万円近くかかりましたが、そういったものはもちろん、今日に至るまで、どこからも一切金銭的な応援がなかったこと含め、本当に切実な経済事情があることは、当然、妻も知るところでした。

新婚から10年暮らした地域にもなじみ、愛育委員でやりがいを持っていた妻は、息子の転校の可能性まで含めて、いきなり私が決定したことには、全く賛成していませんでした。そもそも、彼女は、鹿田幼稚園から岡山大学に通い、そしてそれまで、北区以外に住んだことは、ありませんでした。彼女にとっては、生活環境を変える必要は全くありませんでした。ある意味、阿呆な私の最大の被害者です。

そのあたりも理解され、妻には労いの言葉すら頂けると思っていたのに、なぜそういうことになるのか、いまだに不思議です。

結婚後今まで、妻の苦労は並大抵ではありません。全て私に起因しています。

だからこそ、妻子にだけは優しくして欲しい、そんな願いは、叶いません。どうして?

 

そうしたもやもや感は、常にありますが、それ以上に、南区は本当に地域整備の面からしても、県の仕事は圧倒的に多く、やらねばいけないことも多く、議会質問も緩めず、毎朝街宣しており、本当に仕事は充実していました。なにしろ、南区の現職の議員は、事実上公明党の重鎮と自民党の私だけで、その責任も強く感じていました。

 

 

10月29日(土)

【秘書気質 11】

 

散々な評価の南区異動「志願」ですが、その最中にも喜びはありました。

2009年(平成21年)4月、岡山市は20番目の政令指定都市に移行しました。ともかく南区の端から歩いてみようと思い、灘崎の奥迫川を訪ねました。本来は、地域への挨拶が、いかに重要かは分かっていたはずですが、全く見知らぬ地を含めて、広大な選挙区を隈なく歩くということ自体に、端から無理は感じていました。町内会長さんや役員さんに御挨拶すら難しいと思っていましたが、それでも行かねばなりません。

渋川までサイクリングしていた頃よく見ていた常山が区境、すなわち、玉野市との境になりますが、当時は、迫川の地名すら存じ上げませんでした。

 

時刻は、夕方近くなっていましたが、区長さんを訪ねたら、奥様が、あのアンポンタンなら、その先にいますとのことで、お訪ねすると、うどんを作られている壮年の方々がおられました。伺えば、県の重要文化財等の天然記念物に指定されている大山桜の桜守有志のアンポンタン会の皆様。

なにしろ、もともと玉野市と同じ選挙区で、私の知名度はゼロ。今回の貼りけの件も、元代議士秘書ともご存じない全く新しい出会いでした。

申し訳ないことに、陽気なアイベンアールのように、桜のドームがあり、ひときわ大きなのが、大山桜。この美しい桃源郷のあることすら存じ上げませんでした。

 

名称は、皆さんで楽しもうということですが、実際にやっておられるのは、山道の整備だったり、本当に大山桜を愛する強い気持ちからの事。

ちょっと往復一時間ぐらいで、登ってこられぇと言われるのを今日は革靴なのでと遠慮して、うどんを御相伴になりながら、人情味溢れる雰囲気が、大好きになりました。

特に、大山桜を守るために樹木医の費用の全額自己負担は厳しいとの事で、たまたまそのあたり首尾よく行き、カラオケ大会などにもお邪魔し、また、夜空の美しさに、感動しました。初めて議員として、受け入れて頂けたという感謝の気持ちは、今も変わりません。

 

その後、平成24年台風からの迫川の堤防整備や再びの樹医派遣や迫川大池の災害対策としての整備等いろいろありますが、肝心の大山桜まで、登れそうにありません。

地域的な意向もあり、必ずしも、私の動きの成果が、私に反映される状況ではないと認識してはいますが、それでも、やっていけるかもしれないと初めて思うことができた、大山桜を私も、しっかりと守りたいです。

 

その後、挨拶に行けば、行った地域で必ず要望を頂戴する状況でした。それは、以前に書いた通りの多さで、特に防災対策の要望は切実で、24年台風のときは、心配が現実化したりしましたが、やるべき仕事の多さに、やりがいは、強く感じていました。

仮に北区にいても、政令指定都市化した岡山市の中心部は、県議会議員が直接関係できるのは、県有施設についてぐらいで(必ずしも今はそう思ってはいませんが)、あるいは、落書き消去活動だけが売りの議員になっていたかもしれないとも思っていました。

もちろん、落書き調査隊から一斉消去、用具の現物支給にいたる活動については、仲間と地域の方々と刻んだ素晴らしい成果だと思っています。ホームページには、【佐藤真治のこころ】で、別扉を作るぐらいですから。

 

ただ、地域に対して、なにしろ確実に自分がすべき仕事があるというのは、ある意味、ありがたいことです。しかも、長年放置されていたり、岡山市が政令指定都市になって、やれ市の所管だ、県の責任だ、建設だ、いや農林だと複雑な話も多く、そのあたりに仕切りをつけていく作業は、強いやりがいを感じました。

さらに、国営かんがい事業や児島湾締め切り堤防の安全対策のスケールにも、新鮮さを感じていました。

直接命に関わる問題で、一般質問に大きくつながるものも、多いだけに。

 

しかし、挨拶回りの少なさは否めず、うちの地域では、あんたはいないことになっているというありがたい言葉も頂戴しました。町内会活動も、事務所と自宅の新たな両町内活動に参加する余裕も無く、最も大切なそういう部分がおざなりになるのは、秘書上がりの議員としては、基本を欠くあるまじき行為であることは、今も十分に認識しています。

 

10月28日(金)決算特別委員会

今日は、委員会に復活どころか、来週から通算3度目の入院と相成りました。車椅子で出席も考えていたのですが。部局の審査に入っているので、執行部にも、体調の事は、どんどん伝わっていることでしょう。

良かったなぁ、ちまちま言う議員がいなくてというのは、県にとっては、大損失で、後半戦、取り戻したいです。

 

【秘書気質 10】

 

こうして、自己肯定感が極めて低く、秘書気質の強い私は、結局、学生時代とは違った形で、また呪縛の中にいたのかもしれません。

一番大切な部分をやはり、自分の中で作り上げた実態の無いものに委ねていたのかもしれません。結局は、どこまでも甘えていたのだろうと思います。「秘書気質」と書いてはきたものの、こんななにかルールがあるでなし、幻に承認されることに、親分子分のような理想の関係があると勝手に期待し、幻影に酔っていたのかもしれません。今の秘書たちの方がはるかに現実的でしょう。

NOとは言わない、あるいは、わざわざ先回りして考えて、自分を軽いものにして、結局は、自分を大切にしていない。ただ、20年以上前とは違って、家族まで犠牲にしてしまいました。

それを今は果てしなく悔いています。

 

それが、いまだに謎が多いとされる私の選挙区移動についての根本です。

当時、岡山市の政令指定都市化を前に、岡山市内は、4つに分区されました。私は、市のふれあいセンターにほぼ沿った6つの区になると思っておりましたが、4つとは、全くの想定外。中央区的なものが必要だと今でも思いますが、なにがしかのパワーバランスの結果については、市が決めることです。

ただ、岡山県議会議員の選挙区も、区に沿って、分割。第一選挙区は、加賀郡・岡山市北区選挙区と南区選挙区に分かれることになりました。

 

そもそも定数1を減した12人の選挙区定数を8人(本来は9)と4人(本来は5)に分ける。しかも、当時、南区を地盤とする森先生のご不幸もあり、北区が地元ばかりの議員を南区に貼り付ける必要がありました。当時の民主党は、結局、誰も貼り付ける異動ができず、かといって、議席数4の選挙区に、公明党の議員のみという状況は考えられませんでした。

とはいうものの、私の家とて、議員の中でも最も古く明治時代から旧岡山市民ですし、他の議員も南区に対してどうというより、地盤を変えたい議員などいませんでした。しかし、異動の指名など、誰もできません。

もちろん、実は法的には、籤により、当面の選挙区に張り付き、次回本選は、どこからからでも出馬できるというのはあるのですが、貼りつきましたけれど、こんにちはさようならとは言えません。少なくとも、野球にたとえるなら、10勝が狙える選手でなければ、これまた南区に対して、自民党の組織として、失礼なことになります。

 

中には、今更ながら、政令指定都市反対と言ってみたり、籤なんか死んでもひくかという議員がいたり、2区の国会議員から異動を進められた最も期の浅い議員が手を上げて異動すべきだと本人にも申し上げ、それがベストだったと今でも思うのですが、頑なに拒否し、行き詰っていました。2月議会上程までの時間がありません。

 

そこからバインタインデーの時の逢沢代議士と私の会話の最後は、こうです。

「もしも、逢沢代議士が、佐藤、お前が南に移れと仰られたら、私は、それを拒否できる立場にはないと思います。」

「よし、分かった。君は、県連会長逢沢一郎のたっての願いで、南に異動してくれ。天野幹事長には、俺から連絡する。」

「分かりました。」

それが全てです。

 

あるいは、2008年(平成20年)6月2日に、財政危機宣言が行われ、岡山県政最大の危機であった一方で、総務委員会委員長として、翌年4月の岡山市の政令指定都市化移行を推進してきた責任も感じていました。

あるいは、亡父の遺産相続は放棄しており、持ち家も無い。我が家も、いつまで平和町にいられるか分からない。身内の事情で、少しでも彼を苦しめなくてすむ。政令指定都市になって、無用の長物とされる県議会議員は、活動範囲を幅広くする必要がある。今の南署のできるもっと以前にあった泉田配送センターが佐藤陶器店の終焉の地となったが、当時住んでいた当新田から、再生の狼煙をあげたい・・いろんな理由がないこともないかもしれません。しかし、それらは、補強に過ぎません。

 

全ては、評価されたい秘書気質に起因します。ただ、それは、私が作り上げた幻想でした。全く異動の条件も無く、社内の人事異動のようでしたが、今から思うと都合の良い駒だった気がします。

少なくとも、県連会長自らの仕切りで、直系議員を動かし、他のお客様の議員には、解散総選挙の際は、気持ちよく選挙事務所にお越しいただける。他の議員も、他の議員も活かされる元秘書の最高の自己犠牲、恩返しとまで思っていました。

そういう発想になるのは、まさに青春時代に起因するのだと思います。私の背後になにかあれば、もっと自己肯定感があり、自分を大切にする人間ならば、こうしたことに酔うこともなかったと思います。

 

そして、翌日の新聞には、私が、「志願」して、選挙区貼り付け問題はおさまった形に報道されましたが、志願は志願でも、名誉ある特攻の志願のはずでしたが、「志願」は、一人歩きを始めました。

 

今から思うと、その頃から、癌はできたのでしょう。

 

10月27日(金)

【末藤守先生】

 

1999年初当然組みというと、11人いるのです(?)が、後に、姫井元参議院議員と池田衆議院議員の2人が、国会議員になりました。

途中、蓮岡議員が補選で入ってきて、学年も期数も、唯一同じ議員になりました。

 

その中で、特に大好きなのが、末藤先生でした。

当初、議員の感覚というのに、ともかく慣れず、例えば、飲食でのお金の使い方や何から物を見たときの発言とか対応というのが、あまりにもずれてしまうため、議員の感性とは、こういうものなのか?と疎外感を覚えていました。

ただ、そういうとき、末藤先生を振り返ると、いつもは、穏やかなのに、少し冷めた表情でおられたように思います。

お金や人間関係や時間について、ちょっともったいないなぁということをいつも感じておられたように思います。

 

奥様と喫茶店から、ピアノを打って回られて、山陽こだま楽器を立ち上げられた話。本当に、10円、20円の価値をしっかりと感じられ、強い者に媚びられるよりも、自分より弱い立場の方には、浪花節で、とことん応援していく。

 

TV県政討論会に、ご一緒させて頂いたことがありますが、かって発言等で、後塵を拝した記憶がなかったのに、末藤先生とは、圧倒的な人間力の格差を感じ、絶対に勝てないと思いました。

おそらく、体験は、理屈を超えるため、机上で議論しようとする執行部は、理屈を超えて心情的には理解してしまうために、非常にやりにくい議員だったと思います。

 

年に一度のことではありますが、議員の派閥で、ふぐを食べる会がありますが、ふぐというだけで抵抗を感じ、メロンみたいに、かかってこんかいという気持ちになるのですが、なにか根っこの部分で、そういうところから理解し合えるような庶民派の優しい議員で、末藤先生が大好きでした。

ただ、体調を崩され、引退されました。病気でも、絶対に議員を辞めてはいけないと今も仰って頂いています。それを励みに責任にも感じています。

 

 

一方、蓮岡議員は、やはり、同期ですが、補選で途中から、倉敷市議会から移って来ました。

最初に会ったのは、母が児島出身で、同級生の従兄弟の結婚式で、まだ20歳代でしたで彼が市議会議員のとき。今日とは、かなり体型が違っていました。隣の議席になったときにいは、かなり巨大化していました。故栗山元議長は、引退されるまで、彼と私の区別がついていませんでした。今なら、判ってもらえると思います。

 

なにしろ穏やかな人で、いるのを見ただけでほっとします。この業界、損をすることも多いだろうになぁ・・。

お調子こいて、二人で行った香港(なぜか旅先で偶然、末藤先生に出会う)のような愉快なことは、十分健康に留意して、末永く頑張って欲しいです。

 

議会のルールなどさておき、私にもしものことがあったら、本会議の追悼の言葉は、彼に述べて欲しいです。というか、それ以外をとやかく言う議員、人間がいるなら、覚悟してください。