10月26日(水)

【秘書気質 9】

 

1回目の議会質問から、ともかく連続で続けようと頑張っていたのですが、2回目で、自分でもはっきり分かるぐらいの低迷。

そもそも、自民党内には、そんなに一般質問はやるもんではない的な雰囲気があり、当時は、小田春人議員が続けておられるだけでした。

自分でも、明らかにひどいと感じながらも、どちらかと言えば、笑いのひとつでもとってやろうというぐらいの色物で、多分、変な細かい質問の連続でした。ただ、その時期から、インターネットを駆使するようになり、少しずつ傾向が変わり、NPOやNGOやDVや、自民党から出難いような内容で、逆に、あいつは、何党ならと揶揄されるあたりで、自信がついて来ました。先輩議員は、NPOを「んぽ」と読まれていましたから。

 

しかし、岡山県政に新風を吹かせるとか岡山県を創造的に破壊する(道州制)とか、自民党へは番場蛮の気持ちですとか、ほざいていたわりには、なにかに挑戦すれば失敗。にもかかわらず、初当選の年に、ちゃっかり結婚みたいな自分に対して、議員として、全く自信がありませんでした。ただ、アホはアホなりに、できる挑戦はし、ともかくできることを続けていこうという以外にありませんでした。

 

そんな時期に、代議士の政治資金パーティーがあって、初めて議員として、先輩議員とずらっと来賓で、大舞台に並ぶ場面がありました。私も、隠れるように立っていて、大重鎮の故門木和郎先生が、乾杯の音頭をとられる段になり、「こんなロートルが、毎回、音頭をとっても、おもしろくありますまい。」と言われ、「おい、佐藤君、乾杯の音頭をとれ。」と指名。驚くのはこちらで、戸惑いながら、会場から、声も上がったりして、何を言ったかさっぱり覚えていませんが、初めての大舞台を頂きました。

なにかよく分かりませんが、会場では、その風景に、泣いてくださっている方もおられて、なにより、門木先生が素晴らしいという声が多くありました。

 

考えてみれば、新しい選挙区割りのもと、他派閥の領袖もいる自分の選挙区に、自らの派閥で、新人候補を含めて11人中4人の議席をとりに行くというのは、普通はできないことです。4人に共通していたのは、皆、国会議員の秘書上がりということです。

こういう業界のことですから、もちろん、そういうことのために、大きな力を頂いていたというのを伺ったのは、つい約2年前のことです。

 

そう言えば、選挙戦の最中にも、こういうことがありました。私の選挙事務所に、ダースベーダーのような低音の苗字だけ連呼する門木先生の本隊車が入って来たとのこと。むろん、いわば小なりとはいえ、敵陣営に、巨大陣営の本隊車が入るような話は、聞いたことがありません。政令指定都市になって、別選挙とはいえ、同期間に行われる岡山市の市議会議員の選挙のための市議候補の選挙事務所に、本隊車を入れさせて貰うという発想も、私にはありません。

この門木先生の文字通り陣中見舞いは、本来の自分の陣営からこちらに抜けている方や団体への「ご挨拶」というのは、私には分かるのですが、素人集団には、そうは映りません。わざわざ門木先生が、応援に来て、一人ひとりに握手して、「佐藤君をよろしく」と言ってくれたとなっておりました。

やっぱり迫力が違うな~。頼りになりそうだなぁ、あっち入れるか。という話に盛り上がり、「良い息子さんが、できましたなぁ。」と言われて、母など大喜び。

だいたい、私も、腹が立つと言うより、すげぇな~と単純に感動する始末でした。

 

当選後も、政友会という歴史ある派閥よりも、門木派に入れて頂いたという思いが強く、それは、今も変わりが無いかもしれません。

ダースベーダーを突き抜けた好々爺のようで、私には、一挙手一同、その発言が気になりました。

 

本当にどうしてもどうにかしたいのでご相談がありますということで、足守の北の東山内のご自宅に、朝7時前に、夫婦で伺ったことがあります。和菓子が大好物だと言われるので、某抹茶菓子をもって。

その時の内容が、表町商店街からノンステップバスの導入を促進して欲しいという陳情を頂いたのだが、なんとか通したいので、ご助言くださいというものでした。本当にそれだけのお願いで、ご自宅に夫婦でお邪魔するなんて、今の自分からしても、本当に純粋なかわいい真面目な奴としか思えません。今の私なら、違うやり方をすると思いますが。

しかし、そういうところを評価頂いたかもしれません。生き馬の目を抜くような時代を生き抜いてこられ、毀誉褒貶ありながらも、大きな時代をつくって来られた先生からすれば、かえって新鮮だったかもしれません。

 

津島のお宅で、派閥の月見があるというので出掛けたら、鮎を焼いて、本当に月見をするもので、お茶を頂いて、なにか凄い芸術作品をお見せいただいたのですが、ただただ、風流を感じただけだったのを覚えています。時代はあったとはいえ、なにがどうしたら、どうなって、こうなっては、分かりませんし、過去やその評価には全く関心が無く、ただ単純に、今が格好ええな、やはり、言葉無くとも伝わる風流が、目指すところだなぁと思ったものです。なにしろ、緊張すればするほど、猛烈な早口になった私にとって。

いくら平素ベラベラ喋ろうが、ポイントでわずかの言葉だけで刺す。存在が言葉を越える。噺家ではないですが、口座に上がって、寝る姿だけでもみたい志ん生のような境地にいつか達したいと思っていたのですが・・・。

 

それから花見というのがありました。後楽園の端っこ方で、弁当を食べたような気もしますが、そういうのは、ほとんど覚えていません。

ただ、プラザホテルの宴会場で、門木先生の挨拶の際、カーテンを横に大きく開くと、

背景の後楽園や旭川は、満天の桜。このとき、「散る桜・・残る桜も散る桜・・」。あのときの風景と覚悟を促す言葉が忘れられません。なにか任侠のようでもありますが、本来そういう世界なのかなと思ったりもしました。一方では、守られている安心感だったかもしれません。元来、飲めや歌えやを好むタイプではないので、長らくひとり派閥でおられ、孤独感もあったからこそ、伝わる派閥への配慮があったと今となっては気がつきます。

おそらく、幹事長に就かれたかったと思いますが、いろんなパワーバランスは、私には、よく分かりませんでした。ともあれ、派閥のイメージは、厳格なそういう感じでした。

いずれにせよ、晩年をご一緒しただけでしたが、秘書上がりの大先輩の薫陶を受けたのは、今でも、喜びです。

 

晴れの国おかやま国体・輝いておかやま大会を秋に控えた2005年(平成17年)のあの狂ったような夏の郵政民営化選挙。その年の新年早々に、門木先生は、ご逝去されましたが、あの夏、門木先生がおられたら、きっと違う仕切りをされ、その後の大混乱もなかったのではないかと悔やまれます。文字通り、大切な部分を含めて、自民党がぶち壊されることは、なかったのではないかと。

あの夏は、皆が、おかしかったです。

 

ある方が、門木先生に、「佐藤君は、どうですか?」と聞かれたら、「ぐるぐる回って時間がかかるけど、前には、進みょうる。」という答えだったとのこと。「そうですか、ぐるぐる回ってるだけかぁ・・」と申し上げたら、「違うで、前には進んでいると言われたことが、重要なんじゃ。ぐるぐる回って、どっちに行って良いか、全然進まない議員の方が、多いんじゃけ。」と。

・・・・門木先生、私は、今、宇宙ゴマです。

 

10月25日(火)

【秘書気質 8】

 

そうこうして、皆様もお力で、なんとか初当選させて頂き、当選の翌日までには、選挙区のみならず、第2選挙区まで、自民党の先輩議員には、挨拶に回らさせて頂きました。まさに、先輩方の胸を借りて戦わせて頂き、しかし議会では、右も左も分からぬ者が、最初にお世話になるのは、先輩議員です。なにしろ議員元秘書が、いきなり末端を汚させて頂くのですから、当然という感覚でした。

 

ところで、多くのご支援頂いた方が最初に戸惑われたのは、私をどう呼ぶかということではなかったかと思います。

現在もそうですが、もともと「しんちゃん」と呼んでくださっていたため、昨日までの「しんちゃん」をいきなり先生とは、呼びにくく、なにより、私も求めてもいないし、「議員」という大臣や代議士のような呼称は、一般的でなく、「しんちゃん先生」と呼んでくださる御配慮の方もいらっしゃいました。しかし、やはり、「しんちゃん」が、双方に落ち着く感じです。

一方で、もともと「しんじ」と呼び捨てにされていた方は、もちろん、ずっと呼び捨てで、秘書上がりは、所詮は、秘書上がりで、絶対服従めいた厳しさがありました。

 

ともあれ、秘書上がりにしてみれば、挨拶や会議のときの席順や長幼の序などは、遵守すべき絶対事項で、そこは、少なくとも、私が1期生のときは、党内のムードではありました。自民党控え室の奥のほうの重鎮の席など行ったこともありませんでした。

特に、当時は、議場への出入りで、黙礼する風習というのは、なかったのですが、空気にでも挨拶するという畏怖の念から、私が始めたものです。今はしない議員の方が少なくなりましたが、当時は、それだけの威厳があった自民党や議会の雰囲気は、今よりも好きです。

やはり、年齢がどうあれ、期数を越えてタメ口を利いたり、あるいは、1期生が、議員総会の場で、自由に発言したりというのは、風通しをよくするという議会改革とは別の部分で、むしろ、雰囲気を軽いものに変えているような気がします。逆に、なぁなぁにしてしまうということもあるもので、体育会系の秘書上がり的には、組織的には締めて欲しいと実は、思っています。

 

 

議会は、議会ですが、問題の解散総選挙は、初当選の翌年の夏にやって来ました。

議会開催と岡山青年会議所の前期会員のイベント時期ともろかぶりになりました。

このとき、本当に多くの方から言われたのが、「恩返し」。当選させて貰ったのだから、身を粉にして働けということでした。それは、当然そうするのが当たり前と思われた方も、おられるでしょうし、そうすることが、私自身の身を守るためだと思ってくださる方もおられたと思います。

 

ただ、朝来たら、佐藤はいないのか。昼行けば、票固めに歩けと言われ、夜は夜で、「おえ~しんじ~。自分の選挙以上にやれ!」と怒られ、秘書上がりの議員は、スタッフそのものでした。

辛かったのは、議会なんか放っておいて、事務所に詰めるのが当たり前だという雰囲気があったり、夜に、こそこそ岡山青年会議所の前期会員の最も重要なイベントの会議に行こうにも、ろくろく出られなかったこと。

 

特に、前年秋に結婚した妻も、議員になってからの妻なのに、完全な裏方スタッフに組み込まれていたこと。基本的には、そういうことになっていました。

妻は、当時妊娠4ヶ月でしたが、1ヶ月選挙事務所に詰めました。

ただ、それを秘密にしていたのは、「お祝いが欲しいのかと思われるから言うな」と言われたからです。

 

浮動票に近かった一宮高校関係など、私が頂戴した票を取りまとめられる力もなく、恩返しが、全くできなかった総選挙。

秘書時代の方が、はるかに楽でした。

それでも、秘書上がりの議員として、あるいは、直系1号議員として、20年先には、私が、総選挙の陣頭指揮に立てるだけの力をつけなくてはいけないとそう思っていました。

 

10月24日(月)

【議会質問等について】

 

他の議員の活動について、とやかく言うべきものではないですが、議会質問のあり方等については、常に思うところがあります。

議会の華と言えば定例県議会における代表質問、さらには、一般質問ですが、それ以外に、平素の常任委員会、決算特別委員会があります。

それぞれに強い個性がありますから、何正しいということはないと思いま

すが、そういう質問なら、マスコミを意識してとりあえずやりますではなく、しばりの多い本会議で、わざわざ聞かずともよろしいという質問が増えてきました。

 

基本的に会派所属議員の頭数で、年間のその会派の本会議での一般質問時間の総枠が決まります。それは、勉強のために、まず1,2期生にふられます。1,2期で、4回の一般質問を希望して、できないことはありません。

 

ただ、暗黙の了解として、総務委員長になったら、監査をしたら、代表質問は、辞退すべきだというムードがあり、年に1回ぐらいにする方が多いようです。私も、ずいぶん考えて、4分の3にしたり、年に半分にしたりということもありました。

 

しかし、いまでもお構いなしに、期数を重ねて超マンネリの質問繰り返す議員もいます。結局、誰にも質問しない長い演説や自己満足の登壇のための登壇は辞めて、少なくとも、1期生は、全員一般質問をと指導をする立場です。

期数が多くして、質問や提言がゆるければ、議員としての評価が、ますます下がるだけだと思います。

 

また、こういう議員は、委員会の質問にもしまりがありません。自己宣伝をしたいのか、最後は、支離滅裂。少なくとも、他の議員や委員会の運営全体のことなど考えておらず、長いだけで、内容のない委員会になってしまいます。

 

個人的には、当日の委員会資料を事前に読んでおかないといけないと思うのですが、委員会室に行って初めてみましたという議員が、けっこう多いのは不思議です。

 

 

逆に、委員長としてもできることがあります。特別委員会によっては、今日は、何もないぞ、委員会が早く済むぞなどというのは、ひたすら委員長の恥だと思います。私は、年間スケジュールでなにもないという以前に、その委員会の日は、○○課の担当。その日は、○○課祭りにし、課長の出番を必ずつくるよう、お願いしたりしました。

また委員長レクでは、敢えて、資料やお題を増やすお願いをしました。

 

いずれにせよ、議会の活性化とは言うけれど、議員一人ひとりが、しっかり勉強して議論に向かい、切磋琢磨しあえば、自ずと委員会など盛り上がります。

 

 

ところで、好ましくないですが、アンダーテーブルやリング外で、ことが決まることもあるのでしょうが、個人的には、委員会で、どんなにひつこいと言われようと、あの手、この手、理論武装しながら、言い続けることが一番効果があると思います。

また、署名活動や、マスコミの協力も極めて大きいです。

そういう積み重ねがあって、初めて一般質問のバズーガ砲の効果があり、一般質問だけでは、思い切り事前に根回しと検討を重ねたものや、たまたま決まっていることが、新聞の見出しになるぐらいのことでしょう。

 

特に、現知事は、慎重居士ですから、本会議の再質問で答弁が変わることは、極めて考えにくく、各委員会で、部長答弁や行政委員会の長と議論を重ねた方が、いよいよ正味かと思います。

10月23日(日)

その暮れごいろから、翌年の公示日までに起きたことは、あまり書き記したくありません。本当に多くの友達が頑張ってくれた、その感謝だけが印象です。

武勇伝のように、エイプリルフールの告示日引以降を語って頂くのは、本当にありがたいことなのですでが、それ以前に、土日祝日を潰して、毎日深夜まで、集まってくれた高校の同級生の仲間がいなければ、とっくに死んでいました。本当に、選挙がどういう結果になろうとも、私には、あのときが、一番幸せでした。

 

それから・・・やはり、書けません。ある人には、選挙を通してやった元秘書の議員がいるだけです。

10月22日(土)

「秘書気質 その7」

 

中選挙区時代は、国会議員の先生方も、族議員というよりも、それぞれに得意分野が明確にあり、元秘書の県議会議員の先生方にも、その色合いが残っていました。

そして、当時、岡山市第一選挙区に所属される県議会議員は4人中2人は、派閥の領袖の超大物と別派閥の領袖。3人は、既に議長経験者。さらに、農政の大物の後継指名を受けた市議会議員の出馬が、取り沙汰されていました。

こうした先生方は、60歳を超えており、私に何かあるとすれば、34歳という若さだけでした。

 

小選挙区になり、あらゆる先生からご支援を頂戴しなくてはいけない。年齢バランスから、若い候補を出すという組織論はあっても、新しい制度導入のそこに自らの秘書を出すのは、とても得策とは思えません。

後継指名、団体の推薦は、結局難しく、他の先生方に最後は調整頂けた御労苦があったと伺っていますが、騒ぎを起こした?問題秘書として、以後、事務所に関係ないものとして、選挙前年1998年10月15日付で、解雇になりました。野に放り出された感じでした。

そのあと、フリーマーケットin OKUDAだけやりにきた記憶はあります。

あのとき、ひさかたぶりの横浜ベイスターズの快進撃だけが楽しみでした。

 

11月には、父危篤という知らせが入り、結局、父は人工透析を受けるようになりました。紙で作った幟を自転車につけて、ハンドマイクを載せて、適当に往来で喋る私は、泡沫候補そのものでした。

 

これが、なにか会社組織の経営者の一人だとか、特定の業界団体に、顔が利くような背景があれば、こういうことにはならないでしょうし、一目おかれるような秘書もあるのかもしれません。

私は、結局、なんの調整もなく、棄てらた形になりました。対外的にはこうするしかなかったのだと思います。

 

 

今、私の考える秘書気質とは、いまずいぶん変わってきたと思います。秘書の役割は、代理出席して、上手に原稿を読むことではありません。突き詰めれば、解散総選挙になったときに、いかに気持ちよく選挙事務所に集っていただけるかのための仕事です。

あんたがおるから初めて選挙事務所に来たんで!というのは、最高の褒められ方です。

忙しい時間を割いて、天下国家のためというよりも、就職活動のご協力のため、ノルマを課せられるようなものではありません。あくまで他人様に創っていただいて、期待を具体的に日々、目に見える形で、返していくポジションです。

本当に気持ちよく、いつも笑顔で、そのためには、どこまでも、謙虚でないと人の気持ちは、どんどん離れていきます。特に、自分に利があるかどうかで、時には、人を見下し、逆に、媚びへつらうような人によって、露骨に態度を変えるのは、最悪です。

 

 

そうなると、とりわけお越しいただきたいのが、地方議員の先生方です。基本的に皆さん選挙で戦うライバルですから、緊張感は否めません。しかも、数がいれば磐石ではなく、平素の気遣いが重要で、想いをこめてくださっている方を裏切ってはいけません。

 

私が一番気を遣っているのは、放っといても直系とみなされる私が、他の議員よりでしゃばってなにかしないということです。「あんたらで、やっときゃええが。」というのが、一番困ります。

ですから、所詮、秘書上がりは、トップ当選など目指す必要もなければ、特に若いうちは、他の議員との連絡調整に精を出すのが仕事だと思います。期数が上がれば、あるいは、上がらないとできない仕事もあり、順位はおいおい上げていく謙虚さが必要だと思います。

 

元秘書が、代議士とのツーショットを張りまくったり、いつも、自分の大きなポスターを掲示し、なにか周辺の議員を煽るような感じとか、秘書時代に自分でつけた看板だからと、代議士とのツーショットポスターを貼ってしま行為を少なくとも他の議員は、気持ちよく見ていません。秘書上がりが、トップを目指すことを至上命題とすると、必ず先輩議員と軋轢が生じます。

たとえば別の議員が、ツーショットのポスターを貼ろうが、自分は貼らないというのは、私は、秘書上がりの矜持だと思っています。相手は、お得意様ですから、他の議員は、なにをやっても良いぐらいです。

最終的には、選挙の際、代議士事務所に、どれだけお越しいただけるかは、秘書上がりの議員の仕事ではないかなと思います。要は、案内係のようなもので、それでも直系の十分なアドバンテージがあるものです。

 

それはそれとして、ともあれ、中心市街地のど真ん中で、路頭に迷っていた初選挙前年の秋でした。

10月21日(金)

「秘書気質 その6」

 

 

政令指定都市なる前の秘書時代、少なくとも20年前までは、岡山県議会議員は、正直こわかったです。なぜか、皆さん、ことごとく運転手月付の黒塗りの車に乗っておられ、むしろ国会議員より偉そうですらありました。

私の担当学区には、県議の事務所はありませんでしたが、会場への送り迎えや用事で届け物に行っても、愛想をしてくださるのは、森先生ぐらいでした。

市に対しても、予算の権限も強く持っており、時代も時代だったので、中選挙区からの流れも強く残り、市議会議員の先生とも、系列化されているようでした。特に、歴史に名だたる国会議員の先生の秘書上がりが多く、国政とのパイプも強くあったのだと思います。

 

とは言うものの、私の当時の担当学区で、2時間ほど立たされたのは一人だけで、そんなに難しい先生は、おられませんでした。

特に、ミニ集会では、市政報告をお願いしたりして、連絡したりしていたので、ありゃ生意気な奴じゃという風評も立っていなかったと思います。

 

必ずしも適切なたとえではありませんが、縄張り争いの側面は、否めません。その間をまさにチンピラが調整に回るのですから、それは、なかなか難しいものがあります。

 

ただひとつ正義があるとすれば、開催総選挙になったら、どの先生も奥田に気持ちよく駆けつけてくださるということで、それが、秘書の、あるいは、秘書上がりの正義です。

 

 

当時は、大御所の県議の先生が黙っていても、選対本部長になる仕組みでした。ただ、20年もすれば、私自身が、選挙事務所を事実上、仕切らなくてはいけないし、それはできることとも感じていました。

ただ、いったい何回選挙があることやら・・・。

10月20日(木)

【秘書気質 その5】

 

ルートセールスに近い秘書の通常業務で、そこは、なんぼか寄りやすいとか寄りにくいところは、出てきます。

なかには、2時間半立たされた連合町内会長もおられましたが、個性が強い名物みたいな会長さんは、当時本当に多くいらっしゃいました。しかし、中には、通りすがりに立ち寄って2時間経ってしまったという極めて居心地が良いところがあります。

最近、秘書が、複数で一緒に動いているケースを多々見かけますが、やはり、飛び込み営業は、一人で行うものです。四季折々の移り変わりを夕陽に感じるような風情は、ひとりならではです。

 

矢坂のTさんのところに、お邪魔するようになったのは、いったいいつからだったか?

最初、街道沿いの農業倉庫で、70歳を越えた白髪のお年寄りが、椅子に寝転がっている姿を見て、死んでると思いました。美しいとは言えないストーブか扇風機を中心に、5つほどまた年代ものの椅子が囲んであり、なにか気を使わなくてはいけない要素が皆無で、座れるもんなら座ってみろという状態でしたが、もうひっきりなしに人がやって来ました。

あだ名をつけるのがとてもうまく、Tさんが戦争に行かれているので、八路軍というあだ名の小倉太鼓の名人がこられたり、老(若)男女が、いつもおられました。

 

多分、出入りの許可の試験があるとすれば、「おえ、佐藤君、焼酎入りのコーヒー飲むか?」

と言われて、拒否しないこと。それが、たとえ、茶渋まみれの茶碗でもです。もちろん、全部飲むわけには行きませんが、「甘いですね~」と本気で感動したので、今から思うと、ウエルカムになったと思います。

 

それからは、仲人の会やカラオケの会に呼んで頂くようにもなりました。

たとえば、政治資金パーティーをするようなときに、いくら組織があるとはいえ、その都度、各種団体へ割り当てしたり、後援会のコアの方に集まって頂いて、当然のノルマのように目標枚数を示したりするのは、基本的には失礼なことです。

決して、前のほうには出て行かれないけれど、「おえ、佐藤君、来たったで。」と、なけなしのお金を握り締め、何人かで来てくださるのが、どれだけ嬉しいか。最後まで照れるように参加してくださる方が多くいてくださる、それが、底力で、秘書の力だと思います。

年のころなら、50歳以上異なるのに、秘書というより、一人の人間として認めて頂けたことが、本当に嬉しかったです。

 

おそらく、多くの方々にとって、秘書は縁の下の力持ち。はっきり言って、連絡係りなど誰だってかまいません。地域担当なのに、苗字も覚えて頂けない秘書などいくらもいます。

そんな中で、代理というより、あなたがおいでといわれて、はじめて仕事になります。

 

真冬に、外で待つ自動車で、「運転手さんも、たいへんじゃなぁ。」と缶コーヒーをもらったりするのが、本当に嬉しかった。

秘書の喜びは、そんなものなのです。

 

 

ただ、他議員の先輩秘書から頂戴した金言は、今ですら大きな支えになっています。「真ちゃん、『 いつもニコニコ したがわず 』」でいかないとこの仕事は、もちませんよ。」と。やはり、どこまでも、あくまで自分は自分であり続けることが、重要だと新しい他所の秘書には、申し上げています。

10月19日(水)

【秘書気質 その4】

 

やはり人間には,合う合わないがあるもので、こりゃもうどうしようもないと思います。ただ、人間社会の織り成すことですから、なんとかやっていかなくてはいけません。いまだかって、生理的に気持ち悪くて駄目ですとは言われてはいないものの、なかには、虫唾が走るほど嫌いだったり、どこかで大勘違いして、嫉妬しているような人も広い世界には、いるかもしれません。

ただ、こちらもこちらで、長幼の序もそこそこに、目上の方にタメ口をきくというだけで、私の中では、基本的にアウト。あと虎の威を借り、七光りを振りかざして、下駄を履いてくる輩は、アウト。ともかく根っからどろっとした陰気なやつアウト。

 

しかし、やはり、秘書などという変わった職業に就くものは、基本的に経緯は様々ですしたがって、辞め方も、様々です。ただ、現在は、ある大きな団体の事務局長を勤めている人がいて、どう考えても、この人が、一番まっとうな人生を歩まれていると思います。

あとは、実家が大きな家業とか、大きな人脈や組織があり、事務所でもけっこう偉そう言えて、仲間内からは、そうは好かれていない秘書。帰る場所がある羨ましい立場です。

いずれにせよ、20人ぐらいの狭い業界です。宴会場のあるホテルの前で、運転手として、それぞれの先生をだらだら待ちながら、秘書仲間と話ができるのが楽しみでした。

しかし、それぞれに、先生との信頼関係や忠誠心が生活の基盤そのもので、実際は、悩みや不安や家族への思いがあり、常に揺れている感じでした。

もっとも、橋本事務所と平沼事務所は、別格で、特に、平沼事務所は、先生絶対の誇りが現在に至るまで強くあり、多くの秘書の方々が、今も前線で、頑張っておられます。

ある意味、古い体質の中、何も持たない私は、まるまる5年の滅私奉公でしたが、これはもう異例の早さの大抜擢?だったかもしれません。

 

そういう中でも、おそらく私は、なにがどうというわけでなく、変わり者だったと思いますが、なかなか他の事務所まで鳴り響くような個性派は、少なかったです。

 

しかし、年下だけれど先輩の同じ事務所のSさんは、ある意味、変わっていました。朴訥に見えて真理をつく彼には、教わるというか、びっくりすることが多かったのですが、基本的に、彼には、そう欲がありませんでした。

県北の消防団で、話を聞いて、この人は立派な人だと、津山の後援会事務所の門をたたき、小選挙区になるとき転勤してきたのです。

ここから先は、私の感性には全くないのですが、当時の住吉町の代議士の家に下宿。夫人の料理を食べていたという・・・。そこに、特に思いはなく、えかろ~と思える大物ぶりに感心しました。

 

また、ルアーフィッシングに凝っていて、毎晩釣りをしているというので、私も、ついていったことがります。

桜橋の下から、ルアーを投げるのですが、私がでたらめにやっていたら、でかいスズキの鰓に引っかかり、吊り上げました。

「食べる~?」というので、どうやって?というと、住吉町で、ちょっと水を抜いて、七輪で焼いて食べるとのことなので、遠慮しました。

そう言えば、二人で永田町勤務。1ヶ月同居というのがありました。この時の密かな武勇伝?も、思い出しただけで、笑えてしまいます。

 

殺伐とした事務所でしたが、彼がいるだけで春風が吹き、穏やかな気持ちになれました。

また、1回目の選挙のときに、選挙事務所のガソリンスト-ブをいつも入れてくれました。どんなに劣悪な状況でも、そこにいつも穏やかな笑顔があったこと、本当に感謝の思いにつきません。

 

しばらく経って、なんらかの事情で、事務所をやめたあと、縁があって、岡山の地場の大手の工場にスカウトされました。別の工場で働いていた彼の誠実な働きっぷりが評価されたものです。ご家族にとっても、すごく良いことです。

なにが幸せかわかりませんが、こういう形で、政治と離れていけたのは、羨ましいです。

 

20年前の秘書たち、皆、どんな気持ちで、運転とかしてたのかなぁ・・・。

あすなろ小僧のような夢を持っていたのか分かりませんが、ただ、そうした秘書仲間の代表としての議員なんだということは、私にとっての大きな責任であり、誇りだと思っています。

 

ただ、座学で何を学んでも、スーツを着てインターンで来ようが、所詮は、お客さんか、事実上の選挙運動要員。涙を流し、泥をかぶらないと、政治は何も分かりません。

10月18日(火)

【県と市】

 

特に、浜松の合併を促進するために政令指定都市の人口要件が、100万人から70万人となって以来、全国に政令指定都市化のブームがおきました。

もとはといえば、都市部において、行政予算を投下するよりも、民間投資がどんどん行われ、規制緩和もどんどん行われ、都市は、どんどん元気になるというイメージなのですが、実際に起きたのは、人口を合わせるための無理な広域合併でした。その結果、中山間地域や農村部、災害対策などの課題を一挙に抱え込むことになりました。都市に人やモノや情報を呼び込み、投資が投資を呼ぶということで、それを地域の防災対策にあてて、バランスをとるような、もともと均衡ある市域の発展というのは、テーマとは言えませんでした。

しかも、県と同じような課題で、都市部からインフラ整備が延びたという話も、厳しい財政状況の中で、なかなか起きてきません。かえって、コミュニティバスやデマンドオンタクシーのように、公共交通は、より財政事情の中から現実的なものとなり、むしろ、政令指定都市というよりも、県と町村の関係ですんでいた話も、市経由だと優先順位は、高くなりません。

 

個人的には、【佐藤真治のこころ】に、書き溜めているように、日本中の新しい政令指定都市の調査に行きました。どの都市も、山間地域や農村部との広域合併で、新潟以外は、都市の風格も感じられませんでした。

そして、新潟の県議からは、「政令指定都市となれば、その選出の議員は、皆、地獄に落ちますよ」と言われたのが、印象に残ります。

そして、それは、あながち間違いではありませんでした。いつのまにやら、県議会議員は、市の主催の行事に案内すら頂けなくなっていました。来賓挨拶の順番などは、気になりませんでしたが、一生懸命、岡山市を政令指定都市にしたら、公的に岡山市選出の議員とすら認められないのが、思い切りプライドをズタズタにされました。

あんなに頑張ったのに、功労賞ひとつ頂戴できるわけではありませんでした。

 

私自身は、ひとたび動き始めた政令指定都市の流れを止めるべきではないと思いましたし、やるからには、日本に冠たる歴史、文化、産業、医療保健福祉を持ちながら、どこまでも、心通うあたたかい街、岡山を目指したいです。

そもそも、私は、生粋の岡山市民です。岡山市を愛しています。

岡山市民だけど、岡山県民だなんてありえないのです。馬鹿にするなと強く申し上げたい。

ただおそらくは、政令指定都市岡山市にふさわしい岡山の顔を作ろう、政令指定都市にふさわしい文化、芸術力を発揮しようと、にぎやかな議論は目に付きますし、しばしば政治も絡むようですが、本来なら4区それぞれに描く街づくりや交通体系の話など、緒についたばかりです。

特に、どの地域も、防災体制が甘く、根本にすえるべきことは、はっきりしています。

まして、広域防災となれば、県との密な連携が避けられないのですが。

 

今は、成人したての若者が、自分でやれることだと,敢えて煩わしい県の手を離れて、

いろいろチャレンジをされている時期で、ある意味、広域で、各市町村と協定を結んで、

地方振興局経由で、予算立てしてでは、間に合いません。また、都道府県を越えた都市連携など、県は、阻害要因かもしれません。

今後、県の施策は施策として、市町村は、その指導を待つことは、なくなるかもしれません。もともと、対等、協力関係なのだから。

 

いずれにせよ、教育再生と産業振興という県の中心テーマについては、広域補完行政なのかを含めて、市町村の喫緊の課題とずれている可能性があります。いわんや、政令指定都市やそれと連携する都市の流れも止まりません。

 

気がついたら、県は、なかなか自立のできない市町村の応援がメインになるかもしれませんし、都道府県を越えたより広域の行政に活路を見出すべきです。

残念ながら、県と市は、離れていきます。災害対策で、問題にならないように。

 

 

そして、はっきり言えるのは、やはり道州制の議論しかありません。

 

また、政令指定都市で、市議会議員選挙のように、県議会議員が、区ごとに選挙する理由がわかりません。一部合区して、定数を減らさない限り、今後も、市議会議員の先生からも、優しくは扱って頂けないでしょう。

 

10月17日(月)

今日は、決算特別委員会です。各部局の成果報告を審査していけるので、開催回数の多さを嫌う議員もいるのですが、私は、好んで所属してきました。

とりあえず、車椅子での出席が可能か、検討してもらっていますが、マイクもいけるかな・・・。

 

【議員の暮らし】

 

もしも、議員でなければ、研修と称して、北は、釧路から、南は、宮古島まで行くようなことはなかったと思います。また、日米青年指導者交流プログラムで、アメリカでの2週間の研修や、スカンジナビアやモンゴル、フランス、ドイツ、台湾、香港複数回など絶対に行っていないでしょう。

副議長のときの飛行機のVIP待遇、新幹線で、グリーン車に乗ることさえ、なかったかもしれません。

 

ただ、そういうことを役得とも当然とも思えませんでした。あくまで、母親や選挙を支えてくれた友人の金銭感覚、リビング岡山のヒラ社員が、私のそれですから、馴染むはずがありません。

 

 

議員内で集まっても、よその国の話に思えました。

スーツや時計やワインや星野リゾートに泊まった話など伺うと、いよいよついていけず、というか何が面白いのか、日本語が分からないという感じです。

以前、森先生が、議会内の貧乏リストを作られたことがありますが、私は、堂々のビリから2位でした。ただこのときは、平和町の平和地所ビルがあるという前提のようでしたが、それについては、相続放棄しており、持ち家や土地など全くない根無し草ですから、ビリではないかな・・・。

議員も、出自は、まちまちで、会社経営している二世議員には、せこせこしていない品のある安定感を感じます。

最近の傾向としても、やはり、若手でも、地元に商売があり、議員報酬だけで何とかしようという議員は、まずいないと思います。もちろん、強固な組合や組織の全面的バックアップがあれば、話は別ですが。今後、たとえば、20歳台で、徒手空拳、青雲の志を持って県議会委員を目指すというのは、賛成できません。あえて言えば、純粋な秘書上がりや、政治的な関心をもって、きっちりした職業をお持ちなのに、地方議員から泥をかぶってみようという経験が、現実と理想のギャップを広げてしまうだけです。

あるいは、地方議員の任期途中で、首長や国会議員を転じるのも、特は、複数選挙区では、現実味が極めて薄いように思います。その時代にあって、そのときの選挙のテーマに沿った候補者、」優秀な人材は、どんどん出てきて、一選挙区で、いくらトップ当選を重ねたところで、よほどのカリスマ性がなければ、のし上がってはいけません。それならば、端から、首長や国会議員を目指す動きをすべきかもしれません。

ましてや、期を重ねれば重ねるほど、地域の責務が重くなり、逆に、選挙区を離れる動きは、年々とり難くなります。やるにしても、20年計画です。

 

いつくるか分からないタイミングを待つ。仮に何かの資格があって食べてはいけるにしても、ご家族の期待通りには、なかなかならず、そうしたイライラ感を持ちながら、子どもは、すこしずつ大きくなり、課題もふえて家族の皆さんが幸せになるとはとても思えません。

 

 

こう考えてくると、子育てがすんで、リタイアされた主婦の方が、どんどん出てくるような仕組みは重要ですし、失礼ながら、未婚で、お子さんがいない女性のほうが、かなり自由度が高いと思います。やっていける感はあります。

やはり、女性の感覚でしか動かせないものがあります。

 

 

とはいうものの、本当は、地方議員を職業化すべきかどうかすら問題です。委員会は、夜に、本会議は、日曜日に開催し、半ボランティアの議員にする。サラリーマンや子育て中の女性も、どんどん参加する。

どう考えても、特権階級的な勝ち組の議員が、ちょっと多すぎます。生の怒りの声になっていません。