10月22日(土)

「秘書気質 その7」

 

中選挙区時代は、国会議員の先生方も、族議員というよりも、それぞれに得意分野が明確にあり、元秘書の県議会議員の先生方にも、その色合いが残っていました。

そして、当時、岡山市第一選挙区に所属される県議会議員は4人中2人は、派閥の領袖の超大物と別派閥の領袖。3人は、既に議長経験者。さらに、農政の大物の後継指名を受けた市議会議員の出馬が、取り沙汰されていました。

こうした先生方は、60歳を超えており、私に何かあるとすれば、34歳という若さだけでした。

 

小選挙区になり、あらゆる先生からご支援を頂戴しなくてはいけない。年齢バランスから、若い候補を出すという組織論はあっても、新しい制度導入のそこに自らの秘書を出すのは、とても得策とは思えません。

後継指名、団体の推薦は、結局難しく、他の先生方に最後は調整頂けた御労苦があったと伺っていますが、騒ぎを起こした?問題秘書として、以後、事務所に関係ないものとして、選挙前年1998年10月15日付で、解雇になりました。野に放り出された感じでした。

そのあと、フリーマーケットin OKUDAだけやりにきた記憶はあります。

あのとき、ひさかたぶりの横浜ベイスターズの快進撃だけが楽しみでした。

 

11月には、父危篤という知らせが入り、結局、父は人工透析を受けるようになりました。紙で作った幟を自転車につけて、ハンドマイクを載せて、適当に往来で喋る私は、泡沫候補そのものでした。

 

これが、なにか会社組織の経営者の一人だとか、特定の業界団体に、顔が利くような背景があれば、こういうことにはならないでしょうし、一目おかれるような秘書もあるのかもしれません。

私は、結局、なんの調整もなく、棄てらた形になりました。対外的にはこうするしかなかったのだと思います。

 

 

今、私の考える秘書気質とは、いまずいぶん変わってきたと思います。秘書の役割は、代理出席して、上手に原稿を読むことではありません。突き詰めれば、解散総選挙になったときに、いかに気持ちよく選挙事務所に集っていただけるかのための仕事です。

あんたがおるから初めて選挙事務所に来たんで!というのは、最高の褒められ方です。

忙しい時間を割いて、天下国家のためというよりも、就職活動のご協力のため、ノルマを課せられるようなものではありません。あくまで他人様に創っていただいて、期待を具体的に日々、目に見える形で、返していくポジションです。

本当に気持ちよく、いつも笑顔で、そのためには、どこまでも、謙虚でないと人の気持ちは、どんどん離れていきます。特に、自分に利があるかどうかで、時には、人を見下し、逆に、媚びへつらうような人によって、露骨に態度を変えるのは、最悪です。

 

 

そうなると、とりわけお越しいただきたいのが、地方議員の先生方です。基本的に皆さん選挙で戦うライバルですから、緊張感は否めません。しかも、数がいれば磐石ではなく、平素の気遣いが重要で、想いをこめてくださっている方を裏切ってはいけません。

 

私が一番気を遣っているのは、放っといても直系とみなされる私が、他の議員よりでしゃばってなにかしないということです。「あんたらで、やっときゃええが。」というのが、一番困ります。

ですから、所詮、秘書上がりは、トップ当選など目指す必要もなければ、特に若いうちは、他の議員との連絡調整に精を出すのが仕事だと思います。期数が上がれば、あるいは、上がらないとできない仕事もあり、順位はおいおい上げていく謙虚さが必要だと思います。

 

元秘書が、代議士とのツーショットを張りまくったり、いつも、自分の大きなポスターを掲示し、なにか周辺の議員を煽るような感じとか、秘書時代に自分でつけた看板だからと、代議士とのツーショットポスターを貼ってしま行為を少なくとも他の議員は、気持ちよく見ていません。秘書上がりが、トップを目指すことを至上命題とすると、必ず先輩議員と軋轢が生じます。

たとえば別の議員が、ツーショットのポスターを貼ろうが、自分は貼らないというのは、私は、秘書上がりの矜持だと思っています。相手は、お得意様ですから、他の議員は、なにをやっても良いぐらいです。

最終的には、選挙の際、代議士事務所に、どれだけお越しいただけるかは、秘書上がりの議員の仕事ではないかなと思います。要は、案内係のようなもので、それでも直系の十分なアドバンテージがあるものです。

 

それはそれとして、ともあれ、中心市街地のど真ん中で、路頭に迷っていた初選挙前年の秋でした。