10月19日(水)

【秘書気質 その4】

 

やはり人間には,合う合わないがあるもので、こりゃもうどうしようもないと思います。ただ、人間社会の織り成すことですから、なんとかやっていかなくてはいけません。いまだかって、生理的に気持ち悪くて駄目ですとは言われてはいないものの、なかには、虫唾が走るほど嫌いだったり、どこかで大勘違いして、嫉妬しているような人も広い世界には、いるかもしれません。

ただ、こちらもこちらで、長幼の序もそこそこに、目上の方にタメ口をきくというだけで、私の中では、基本的にアウト。あと虎の威を借り、七光りを振りかざして、下駄を履いてくる輩は、アウト。ともかく根っからどろっとした陰気なやつアウト。

 

しかし、やはり、秘書などという変わった職業に就くものは、基本的に経緯は様々ですしたがって、辞め方も、様々です。ただ、現在は、ある大きな団体の事務局長を勤めている人がいて、どう考えても、この人が、一番まっとうな人生を歩まれていると思います。

あとは、実家が大きな家業とか、大きな人脈や組織があり、事務所でもけっこう偉そう言えて、仲間内からは、そうは好かれていない秘書。帰る場所がある羨ましい立場です。

いずれにせよ、20人ぐらいの狭い業界です。宴会場のあるホテルの前で、運転手として、それぞれの先生をだらだら待ちながら、秘書仲間と話ができるのが楽しみでした。

しかし、それぞれに、先生との信頼関係や忠誠心が生活の基盤そのもので、実際は、悩みや不安や家族への思いがあり、常に揺れている感じでした。

もっとも、橋本事務所と平沼事務所は、別格で、特に、平沼事務所は、先生絶対の誇りが現在に至るまで強くあり、多くの秘書の方々が、今も前線で、頑張っておられます。

ある意味、古い体質の中、何も持たない私は、まるまる5年の滅私奉公でしたが、これはもう異例の早さの大抜擢?だったかもしれません。

 

そういう中でも、おそらく私は、なにがどうというわけでなく、変わり者だったと思いますが、なかなか他の事務所まで鳴り響くような個性派は、少なかったです。

 

しかし、年下だけれど先輩の同じ事務所のSさんは、ある意味、変わっていました。朴訥に見えて真理をつく彼には、教わるというか、びっくりすることが多かったのですが、基本的に、彼には、そう欲がありませんでした。

県北の消防団で、話を聞いて、この人は立派な人だと、津山の後援会事務所の門をたたき、小選挙区になるとき転勤してきたのです。

ここから先は、私の感性には全くないのですが、当時の住吉町の代議士の家に下宿。夫人の料理を食べていたという・・・。そこに、特に思いはなく、えかろ~と思える大物ぶりに感心しました。

 

また、ルアーフィッシングに凝っていて、毎晩釣りをしているというので、私も、ついていったことがります。

桜橋の下から、ルアーを投げるのですが、私がでたらめにやっていたら、でかいスズキの鰓に引っかかり、吊り上げました。

「食べる~?」というので、どうやって?というと、住吉町で、ちょっと水を抜いて、七輪で焼いて食べるとのことなので、遠慮しました。

そう言えば、二人で永田町勤務。1ヶ月同居というのがありました。この時の密かな武勇伝?も、思い出しただけで、笑えてしまいます。

 

殺伐とした事務所でしたが、彼がいるだけで春風が吹き、穏やかな気持ちになれました。

また、1回目の選挙のときに、選挙事務所のガソリンスト-ブをいつも入れてくれました。どんなに劣悪な状況でも、そこにいつも穏やかな笑顔があったこと、本当に感謝の思いにつきません。

 

しばらく経って、なんらかの事情で、事務所をやめたあと、縁があって、岡山の地場の大手の工場にスカウトされました。別の工場で働いていた彼の誠実な働きっぷりが評価されたものです。ご家族にとっても、すごく良いことです。

なにが幸せかわかりませんが、こういう形で、政治と離れていけたのは、羨ましいです。

 

20年前の秘書たち、皆、どんな気持ちで、運転とかしてたのかなぁ・・・。

あすなろ小僧のような夢を持っていたのか分かりませんが、ただ、そうした秘書仲間の代表としての議員なんだということは、私にとっての大きな責任であり、誇りだと思っています。

 

ただ、座学で何を学んでも、スーツを着てインターンで来ようが、所詮は、お客さんか、事実上の選挙運動要員。涙を流し、泥をかぶらないと、政治は何も分かりません。