10月16日(日)

劇的なことは起きず、あえて言えば、北海道日本ハムの大谷には、驚きました。ONやイチロー以来のスターで、いったいどこまで行ってしまうのでしょう。

 

【期数】

 

おそらく地方の首長で、5期も勤めれば、長期政権の謗りは免れないと思います。何といっても、二元代表制を採用してはいるはものの、地方は、大統領制で、首長に、権限が集中しています。

しかし一方で、議員に関しては、その期数についての議論が、なかなか盛り上がりません。個人的には、国会議員は知りませんが、選挙区がわりと細かくわけられて、地盤となる地域も、縄張りではありませんが、わりと意識されていて、なかなか新規参入で切り込んでいくのは難しいものがあります。同調圧力もかかっています。

もちろん、地域の有力者代々が推されて、その地域を守るというのは、想像を絶する努力が必要で、老人クラブから子ども会まで、厚い支持基盤を作ろうとすれば、よほど地域への貢献が必要。

いずれにせよ、地方議員で、当選回数を地道にかさねていくのは、たいへんなことです。

 

問題は、基盤が安定すると、どうしても、誰かが中心となり派閥ができいくことです。

人間社会のことですから、気のあったものが集ったり、利害関係で結びつくというのは致し方ありません。ただ、どうしても、安定した基盤を持ち、期数を重ねたものが、中心になります。

 

もちろん、議会の仕組みとして、1期生のときは、巨大組織に慣れきらないというのは。まして、私のように、34歳で当選した者にとって、50歳の声を聞く課長に連絡するというのが、緊張します。実社会でも、ちゃんとした会社組織で、起きていることではないと思います。

それは、私自身の中の当然の決め事なのですが、「長幼の序」を極めて強く重視していることもあります。期数に関わりなく、私より年上の議員は、必ず先生と呼び、私より年下で期数の上の議員はいませんが、さん付けで呼びます。

まして、目上の職員さんとのやりとりで、岡山弁やタメ口で、話すことはまずありません。本会議や委員会で、きっと言い放っているイメージもありますが、さしで話すと丸いと思います。頑固で、ひつこいですが。

だからと言って、そうした仕組みについては、教わるものだと思いません。いちいち先輩の指導を仰ぐものでもありません。どこの馬の骨か分からない1発屋の可能性がある議員でも、職員さんは丁寧にあつかって下いさいます。なによりも、失敗しなければ覚えられないことの方が多いです。

 

しかし、現実問題、かなり大きな話や、ややこしげな話というのは、1期生が理解しているものではありません。勢い霧の向こうに霞んでいても、それを掌握するのは難しいです。そこを切磋琢磨して勉強会が重ねられるのは素晴らしいです。

問題は、自分の選挙地盤にからんでくるのに、空中戦で、話が進んでいるような場合です。

他の選挙区の顔見知りの議員の方が、はるかに使えるというのはあるでしょう。

 

少なくとも、安定した選挙基盤を持てば、ある意味、余裕と責任が生まれてきます。また、組織体ですから、当然、その発展のために努力する責務もあります。

たとえば、二人区の選挙区では組織内で戦う必要もあり、あるいは、首長選挙への対応で、地元が割れてしまう場合、さらには、弱いとされる選挙区に、応援に駆けつけるということは、しばしば生じます。

 

その意図は、やはり、自らの組織強化で、執行部に対して、強い影響力を持つ、とりわけ対立するグループよりも、頭数を確保するというのは、極めて大きいです。県議会ではああまりありませんが、執行部に働きかけ、対立グループの仕事をとめてしまう(実際は、有権者に伝わり、効果的とばかりは言えませんが)ということもありえます。

 

さらには、首長に対して、強い発言力を持ち、補正予算などの確保をする、ということもあります。これは、一概に悪いことでなく、政策的に本会議のリングサイドで、事が前に進むなら有意義だと思います。なにしろ、首長にも選挙がある人の子ですから、パワーバランスとしては、やむを得ません。首長より、長い期数の議員に囲まれて、なかなか喧嘩はできないでしょう。

 

 

問題はこの影響力を誰が、いつまで持ち続けるのか。

私は、たとえば、5期を持って、ひとつのゴールとし、切磋琢磨しながら、きっちりきっちり世代交代をはかるべきだと思います。

少なくとも、首長と対峙する親分が、突き詰めれば、やれ挨拶がないとか、説明が足りないとか、基本的に自分の選挙区地盤でもないのに、全く新しい事業に対して、とりあえずチャチャを入れ、首長を牽制して、議論が前に進まないようなことがあってはいけません。

 

期数で、報酬は変わりません。

新しい議員が、新しい感性を一番強く持っています。それを封印したり、育てないのが、一番もったいないです。議会の活性化とは言うけれど、人が変わるのが一番です。

 

10月15日(土)

予定と大きく異なり、穏やかで楽しい入院とはいきませんでした。人生いろいろあるなぁ。そんな中、ベイスターズは本当によく頑張りました。堂々とした見事な勝負でした。

来年は、ペナントを奪取すると思います。

 

 

【秘書気質 3】

その後、1996年の解散総選挙は、初めての選挙であるにもかかわらず、極端な印象がありません。選挙戦に入れば怒られるのが秘書の仕事という意識がありましたが、怒鳴られた印象など皆無でした。

 

そのころまでには、ゼンリンの地図を使い担当学区だけのマップを作成。いわゆる地位の主要な方やお役の方は、すべてマーキングし、どの公会堂で、ミニ集会をし、どなたに挨拶して頂いたか、地方議員を誰を呼んだか、何人ぐらいいらっしゃったか、すべて、書き込みました。そして、選挙カーが、どこに立ち寄れば、地域の方にどれぐらいお越しいただけるか。また、大規模な演説会なら、どこの会場に、どういう手順で、ご案内すれば、おおよそこのぐらいは、お越しいただけるので、あとは、企業や団体の方にを動員を願いすれば、形にはなると、10学区分、説明ができる状態でした。

ミニ集会を段取りして、自分でビラを配って回っていれば、少なくとも、選挙のときにだけ顔を見せやがるなどという批判は皆無で、かえってなぜか地域の方からも褒められて、当時は、応援の方もかなり入って下さっていたので、割り振りが用意で、やっぱり褒められて、正直なところ選挙戦に入ると、かえって楽になった印象すらあります。

 

ただ、今後、政権の動きにドキドキしながら、いつあるとも分からない衆議院選挙や参議院選挙や知事選挙に、いったい何年関わっていくのかと漠然と思いましたが、34歳の私には、自分自身が、直接政治に関わりたいというのは、具体的な目標にもならず、あいかわらず、フリーマーケットを続けるだけでした。

 

 

そして、橋本総理退陣となった全国的に大敗北となった1998年7月の参議院選挙のあと。

ちょうど、代議士婦人の運転をしていたとき、岡山市の県議会議員の選挙区が分区になり、引退される先生も出てくるという話から、「真ちゃん出てみたら」とたぶん冗談で言われたのだと思いますが、当時の現実に、夢ですらなかった話。

で、後日、代議士に「来年の県議選にみたいんですけど」と申し上げたら、「あ、いいんじゃないの。」と妙にあっさりと。

 

秘書になったのが、1993年暮れ(平成13年)。1999年(平成19年)の県議選に?

しかし、世の中、そんなに甘いものではありません。

 

 

 

10月14日(金)

なかなかにきつい一日でした。心配事も、気になるままに、県庁には行ったものの結局、病院へ。明日から、静養とういうわけでもないのですが、手術時以来の入院となりました。

 

【秘書気質 その2】

 

時々行き詰った感じの時には、Kさんのところに行きました。「佐藤さん、甘いわ。新聞配りなさい。」以外にはないのですが、その答えで、十分でした。

 

そういえば、平成5年(1993年)に事務所に入ったときは、自民党は野党でした。宮沢内閣は、8月の衆議院選挙でいわゆる8党派連立の新党ブームの前に、惨敗し、しかし、そこからもうわけがわからない流れで、翌年6月、自社さきがけの連立政権で、政権に復帰しました。

 

そして、平成7年(1995年)全てが大きく動き始めました。著名な脚本家である小山内美江子さん経由で、AMDAからの協力依頼が入りました。

深夜0時に出発する救援物資を積んだシンデレラエクスプレス第1便で、長田区に向かいました。途中まで、私が、トラックを運転しましたが、かえって危険なので、やめました。現地では、岡山JCの方々にもお会いしました。

前年に、倉敷チボリ公園で、第1回国際貢献NGOサミットが開催された直後で、岡山のNGOも、一挙に盛り上がりました。しかし、その後、オウムの事件があり、市民活動、NPOは、停滞を余儀なくされましたが、私自身も、NGO,NPO支援を行いたい、岡山を国際貢献都市にすると、いう夢も広がった記念すべき年です。

 

もっとも、ここからいろんなことがあり、その後、たまたま代議士付きで運転していた月曜日に、AMDAに立ち寄ったら、イラン地震の話になり、正式な外交があるとはいえませんが、菅波先生と森暢子先生のご提案で、当時外務委員長の代理として、AMDAのコーディネータとして、緊急救援のため、私も、イランに向かうことになりました。

夜行に乗って、翌朝には、イラン大使館前。出国まで、時間がかかりましたが、アフガニスタン国境近くまで、前代未聞のイラン出張。テヘランは、本当に美しい都でしたが、笑えない思い出が多くあります。

やはり、真剣にやった結果、笑えるエピソードが大切です。

 

ただ、私は、もっといろんなことをしでかしています。

イラン出張前には、スリランカの内戦の被害にあった子どもたちに、古靴を届けるという企画を立て、実は、国内線にも乗ったことがないものが、生まれて初めて、飛行機に乗り、しかも、関空-バンコクからスリランカへ。おまけに内地は、砂浜で、明らかに裸足が気持ち良いという事実。

また、その後、沖縄平和ツアーに行くということで、反戦地主に会い、ガマに入ったり、なにしろ、ガイドさんが、運動家そのものという。

いずれも、5日は、行ったと思うのですが、どう考えても、休みが頂けたなぁという以上に、旅費を出して頂きました。これは、全く期待していたものではなかったのですが、政経塾の理念なのだったのか、いまだに、ありがたいやら不思議です。

 

思えば、それ以上に、自動車をどこまで、ボコボコにしたか、腹をえぐり、後ろを電信柱に思い切りぶつけたか、個人教習のM先生に、申し訳が立ちません。ただ、最初の2週間は、緊張で、便秘になりました。なんかあったら、うちの家族は、終わりじゃなぁと。

あげく、盗難事件というのがありましたが、これは、笑える話ではありません。

 

それでも、関係する会合の来賓挨拶のご案内にメモを挟み、その会の趣旨はなんで、ポイントになる言葉で、何に誰に一番敬意を払うべきか、きっちり成果を出して頂こうとも思っていました。そのあたり、今、どこの事務所もできておらず、通り一遍等の自己アピールのような御挨拶が、増えている気がします。これは、秘書の手抜きです。

と思うぐらいに、真面目でした。

 

考えてみると、ハイリスクローリターンの私を本当に良くかわいがって頂いたと思います。どこの地元秘書に聞いても、こんなエピソードの宝庫ではないでしょう。

10月13日(木)

良いことは小刻みに、悪いことは、いっぺんにやってくるというのは、人生のつたない体験からの経験則です。

本当は、日常的に起きているささやかに良いことにひとは気がつかず、悪いことの印象だけ残します。家族みんなで、夕ご飯が、明日への何の心配もなく食べられる。それは、当たり前のことでなく、本当に大きな幸せです。幸せも、いっぺんに来ていることもあります。

いっぺんにやってくる悪いことも、まともに全部受けてしまっては、ひっくり返ってしまいます。時には、時間を稼いでも良い。時には、逃げてしまっても良い。しかし、必ず嵐は通り抜けていくことを信じていたいです。

 

【秘書気質】

 

文字通り、後援会事務所に転がり込んだ私ですが、最初驚いたのは、初めて大型のミッション車を運転して岡山国際ホテルまで送っていったX’masパーティでした。まさに、俗に言うセレブの集まりで、おそらく30歳代のなんかの人が、奥さんやお子さんがバリバリにお洒落をして、皆、高級車に乗り込んでいくのでした。

今となっては、それが、岡山青年会議所のX’mas家族例会だったというのがわかるのですが、その後も、そもそもホテルの宴会場などに出入りすることはなかっただけに、なんと華やかな世界があるもんだなぁと思いました。

もちろん、私は、写真撮影にお邪魔するだけですが、一般の方が、そんなにしょっちゅうホテルの宴会場に行くことはない気がします。

 

逆に、いわゆる血気盛んな当時の青年部の皆さんは、私には、恐怖の対象でした。

 

また、やむなく会葬の代理出席というのもあるのですが、まったく知らない人に、ご焼香をあげるというのも、最初は、戸惑いました。

 

 

ただ、20歳代当時の私は、なにしろすれていませんし、比較的素直で、こだわりもなく、体力もあったので、特に休みは欲しがらず、指示された会合以外も、どんどん顔を出し、ご高齢者受けする愛嬌があって、わりとかわいらしく、しかも、後ろ盾もないということで、使いやすかったと思います。なにしろ独身ですから、就労時間という意識もありませんでした。

 

フリーマーケットは、もちろんですが、担当学区を頂いた後は、けっこうコマめにまわり、ミニ集会や婦人後援会の設立など、相当数行いましたし、時間があったら、夜や昼に、表町や奉還町や駅前町に、ビラを配ってまわったりしました。また、新規開拓ではありませんが、NPOや市職労主催の市民の集いまでお連れしたこともあります。

 

そういうことが許されたのも、当時は、個性的な先輩秘書が多くいらっしゃったことが大きく、それぞれに得意分野があり、ほとんどノウハウというのを教えて頂いたわけではないのですが、自分で自由に結果を出せば良いという気風があり、ありがたかったです。

なにより、未来が広がっているような勢いがありました。

 

 

しかし、一番大きかったのは、やはり、岡山リビング新聞社での経験だと思います。

単純に、広告代理業として、唯一の商品の価値を上げ、より高く売る、という発想です。

そのために、企画を立てるのです。

 

今の秘書の後輩たちの姿を見ると、本当に気の毒になります。どの事務所も、スタッフの数が減っていますから、あくまで代理というのをこなすのが精一杯に見えます。また、地域をぐるぐる回るよりは、特定の方にご依頼が集中したり、後援会組織が、事務所の下部組織になるような指示の仕方になりかねません。あくまで、秘書は、ラインです。

少なくとも、本来は、なにか丸投げにしてしまうようなことはありませんでしたし、後援会のコアな方と同じテーブルに座らさせて頂くこと自体に、恐縮しました。

ただ、代理として振舞うだけなら、秘書の仕事の面白さも,辛さも半分かな。特に、政治資金パーティの企画だけなら、かえってジリ貧になってしまいそう・・・

10月12日(水)

【街頭演説】

議員の必要条件として、街頭演説というのはあると思います。決められた箱の中で、拍手を受けることが大前提で行う演説はありますが、基本はやはり、白兵戦であり、マイクが最大の武器だと思います。ただ本当に一人で行う街宣は、ド根性が要ります。

少し前の5年間は、私が、南区のどこかで、ひとり街頭に立っている姿は、日常風景であったと思いますが、党務としては、もう少し前のことです。

 

平成19年第一次安倍政権のもとで、夏の参議院選挙の苦戦が予想されました。ただ、片山虎之助候補については、盤石で、期間中も、全国応援行脚に行かれるだろうからと、自民党青年局長となっていた私も、少し早めに全県下を県連の最大の街宣車あさかぜで、回りました。

それにしても、反応の悪さに驚きました。片山先生は、演説の時に、左ポケットに手を入れてしまう癖があるのですが、それが、とても横柄に見えている感じがして、またしばしば、そういう指摘を受け、なにより沿道の反応が不思議でした。

郵政民営化選挙の時のフィーバー状態でなく、かといって、政権交代選挙の時の完全無視でもなく、ただ、手を振ってくださるような方が、ほとんどおられませんでした。これは、おかしい、まずいんじゃないか?と肌で感じました。

そこから岡山駅前で、青年局主催の街頭演説を毎週水曜日行うようになりました。

 

ご案内の通り、そこからは、姫の虎退治です。後のことを思うにつけ、岡山県にとっても何がよかったのか?という、あってはならない惨敗でした。そして、平成21年9月まで、90回。その後、青年局長から遊説局長になって、平成23年6月まで、さらに77回、駅前街宣を続けました。平成22年1月には、蓮岡青年局長のあたたかい推薦もあり、党大会で、党青年局長から優秀党員の表彰を受けました。

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駅前街宣は、停止街宣が、ドレミ前か、高島屋前か、西口前の3か所しか許されておらず、その場所取りや車を出してくる作業も大変で、夏も冬も、県連職員さんが本当に頑張ってくれました。自民党にとっては、暗黒期ですから。だからこそ、やり続ける意味があると思いました。

特に、県連青年局ですから、各選挙区支部の活動とは別と考え、曜日は、水曜日固定。弁士は、県議会議員のみ。山下たかし代議士や山田みか候補の街宣デビューも、ここです。

最初あさかぜで、やっておりましたが、見下ろすような感じが嫌で、上には上がらず、結局、小さな街宣車で行いました。 特に、あさかぜについては、私自身、特別な思いがあり、県連にとっての旗艦。その船に、軽薄に上がられると、ブチ切れそうになります。

 

ある時期から、南区でのひとり街宣とかぶってきました。水曜日の朝以外は、ひとりで、幟を立てて、ハンドマイクで、街頭に立つ。

毎朝、7時に到着、7時半から、調子に乗ると、1時間半続けました。法的には、厳密に行くと、いろいろあるかもしれませんが、とにかく知名度不足の中、十数か所のポイントをグルグル回りました。

 

この時の私のこだわりは、絶対に笑わない、手ふりだけするようなことはしないということでした。政治活動として、お伝えしたいこと、申し上げたいことがあるから、ハンドマイクを持って立っているのであって、看板の前で、あちらの車、こちらの車に、笑顔を振りまく行為は、やはり恥ずかしいと思います。それを頑張っているというのだろうか?

誰しも、気分の良くない朝があるでしょう。その時、雨に濡れながら、あるいは、真夏の太陽に照らされながら、誰も聞いていないのに、なにやら本気で話し続けている朝のバカ。こんな政治状況で、なにが嬉しゅうて、ヘラヘラ笑っとるんなら、このあほんだら。というよりも、はるかに立派な阿呆だと思います。朝の街頭演説は、エール交換です。

そして、傍らで聞いていただければ、なぜその場で話しているのか、地域の課題や政策等について、本気で話しているのも、ご理解頂けるような街宣を続けてきた自負があります。自分の名前の連呼など決してしない、必要なことを申し上げてきたけれど、聞いてくださる方が、少なかっただけのことです。

かように、街宣で、愛想をしないため、しばしば怒られました。手を振ったのに無視したなどというお叱りは、何度頂戴したか分かりません。

 

しかも、自分の身が、ある種潔白でないと街宣には立てません。「税金泥棒!!」と言われたり、政務調査費のことが問題になっているような時期は、怖いこともあるし、後ろから、おどりゃか今何言うた?と言われる怖さは、常にあります。

それでも、その場で、言いたいこと、やりたいこと、やるべきこと、やったことがあるからこそ、街宣には、毎日立ってきました。

 

そして、術後も。

他のどこの阿呆が、抗がん剤の副作用に苦しみながら、今までと同じように街宣を続けられるか。

顔は、どす黒く、爪はおかしなことになってきて、ボタンは自分で止められない、なにより、少し冷たいものを痛いと感じるのに、真夏と真冬も街宣を続けました。本当に良く耐えました。

多分、こうした街宣は、軽く、2000回を超えたと思います。

 

誰かが、今、街宣に立てていない私を選挙前だけの活動だったのかと揶揄するかもしれません。甘受するしかありません。

 

ただ、はっきり申し上げたいことは、誰よりも、フィールドに戻りたいのは、私だということです。

10月11日(火)祝!横浜ベイスターズCS1st突破!!

横浜ベイスターズが、やらかしてしまいました。
12球団最後に。クライマックスシリーズに出場して、シリーズ2位の讀賣を倒してしまいました!!
ありがとう、あとは、ファイナルで、空気を読んで、接戦までは良いですが、広島東洋にまで勝ってしまわないことです。日本シリーズは、来年シーズンで堂々の1位になって進んでほしい、それはできることだ、そう考えてしまうのが、横浜ファンなのです。

それにしても、残念なのは、讀賣が、坂本以外、いまだに、阿部や村田や長野や内海の30歳代の選手の名前が、前面に出てくること。層の厚さで勝ってはいますが、田口以外の若手の台頭がないのに、やはり、今年は、シリーズに進むべきではなかったと思います。

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【つきあいの悪さ】

この2年半は、よほど大義がなければ、夜の会合は一切お断りしてきました。飲酒も、2年前の元旦に強要された日本酒以外、飲んでいません。
とはいうものの、それ以前から、会合に出ても、まず2次会に参加しませんでしたし、そもそも飲酒をしていませんでした。
この二次会に行かないというのは、つきあいが悪いという評価の原因の一つです。

早稲田大学グリークラブの北軽井沢合宿で、思いきり潰されで、いっぺんに酒が嫌いになったというのはあります。なにしろ、一気飲みの時代。明らかな運動部体質で、それは馴染まない方が悪いのですが、一切馴染むことなく迎えた打ち上げ。そこら中に、ビール瓶や一升瓶と人間が転がる中、目覚めた朝か昼かは最悪で、ついでに体中、思い切り、マジックで落書きされていて、もう二度と酒は飲まないと誓いました。
特に、柿の酢えたような臭いのする悪い日本酒との出会いは最悪で、日本酒がダメになりました。ただ当時は、軟派な酎ハイなんとかサワーが流行りだした時期で、なんの問題もありませんでした。

ただ、実は、原体験として、子どもの頃、今から思うと父は30歳代で、元気がよかったこともあるでしようが、酒を飲んで帰ってきては・・ということもあり、そもそもお酒に対する抵抗ができてしまっていました。自分の中でも、限界を超えた場合は、多分、私自身、性質が悪いんだろうなという意識はあります。

もっとも、一番大きいのは、やはり、中学生から、昼夜保育園で、母親の深夜の仕事の上りを待つ子ども達の姿を見てきたことです。明日の朝、多分普通に起きて、朝ごはんを食べるでない実態を感じていました。

それらは、二次会やはしごがなければ、あまり起きない気がします。

また、初当選時の独身の時は、平和町に住んでいましたので、とにかく夜のお誘いが多く、ほとんどが、9時以降に「あんたの家の近所で飲みょうるから、ちょっと顔を出されぇ!」という電話でした。
岡山で、平和町の近所以外のどこで飲むのか?そもそも、こちらにとっては、もろ地元です。あっちは行って、こっちは行かないということもできず、犬じゃあるまいし、あいつは呼んだらすぐ来る などというのは、大嫌いなため、夜9時以降のその種の電話には、一切出ませんでした。
安定して、誰からも、誘いは来なくなりました。
突然電話をかけて、わしが呼んだのに、あいつだきゃ来りゃぁせんがなと怒る方が、自分以上にこちらを大切に考えてくれていることは、まずありません。

ちなみに、日米政治指導者交流プログラムで、アメリカの地方議員を磨屋町の星乃家に、「焼き鳥で世界を語ろう」というタイトルで、お招きしたとき、かの国の議員に聞きました。「あんたのとこも、やっぱり夜のお付き合いで、毎晩いろんな会合に顔を出して、たいへんなんやろ?」「お前、何わけのわからんこと言うてんねん?そんなこと続けたら、あいつは、家庭を大切にせえへん奴ちゃ言われて、選挙やこ、落選やがな。」

ある初当選議員が、馬耳東風に、毎晩のように、物珍しさで夜の街に呼び出され、昼は、ゴルフに熱中し、下世話な噂が飛び交い、次の選挙に出ようにも出られませんでした。

ラウンジと呼ばれるような店に、二次会に誘っていただいて、知っている人はいないか、まず周囲を警戒。とりあえず水割り~。となったあと、女性に「あ、こいつ知ってる?」と紹介されて、「あ、私は、通りすがりの乳首星人です。地球人の乳首の調査に来ました。」とか言いたいのですが、「あ、そういえば、なんか見たことある~(←私が、そんなに有名とは思えない。)」とかなって、「〇ちゃん、どこに住んでるの~。」「あ、〇〇のあたりです。」「わ、選挙区じゃろう、おめぇ、名刺渡しとけ。」という会話で、テンションさげさげ。
もっと早いのが、「あ、〇〇さん、久しぶり~。」店中に、「あ、ママ紹介しとくは~。こいつ、県議会議員の佐藤~。お、名刺出しとけ。」ということで、入場即テンション下げ下げ。 そのママが、「あ、そう言えば、こないだこの人、来たよ。」と名刺を出され(多分、私のも、このように出されるんだろうな)、そこに同業他者議員の写真。議員によっては、もうどっちらけのけ。そういう議員が、〇〇ちゃんと呼ばれていたら、「あ、俺も、真ちゃんと呼ばれるんだろうな。」とすごく嬉しくありません。
しかし、そういう場は、他の人も、盛り上がりたいので、「おい、真ちゃん!(←あんた誰やねん?)ま、こっちけぇ、真ちゃん!」と覚えていない出会いがあったりします。

カラオケは、本来、嫌いでも下手でもないですが、ともかく場を盛り上げようと、聞かせるような歌は歌わない。で、もともと、お酒自体が、好きでも強くもない。まして、強要するのも、されるのも大嫌い。

「今日はありがとな」と、午前1時から、カウンターで語られるぐらいなら、午後6時から、さしで行きませんか? そう思ってしまうのです。

それでも、考えてみれば、これが日本の付き合い、日本の営業。 あぁ子どもを風呂に入れたいな。あぁ、そろそろ家族でゆっくり話すような時間がないと、やばいよなぁ。ていうか、疲れてるから、早く帰って寝たいなぁ、などというのは、通用しません。なぜなら、皆同じだから。
本当に喜んで飲んでいる人の横には、また影には、多くの犠牲者がいたりします。
ただ、議員においては、本来は、夜に出るべき勉強会は幾らもあります。少なくとも、放っておけば、これが毎日、連日連夜ということになりかねません。

そういえば、亡父も、一人で不動産屋をやっていましたから、毎晩、情報収集のため、営業活動に出ていました。我が家的にはたいへんなことも多かったのですが、あんたの親  父の酒は、面白かったと言ってくださる方は、いまだに多いです。家では、愛想がないのに、人が多くいると、サービス精神を発揮してしまう。お調子をこく感じが、ありありと浮かんできます。
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父が亡くなった後、あの佐藤のせがれなら、面白いだろうと、例会にずっと呼んでくださったり、地域の方も、亡父の関係で声をかけてくださったりするのですが、私は、面白くないようです。何をしていたんだ?親父。

家族の目からは、冠婚葬祭の葬であろうと盛り上げようとする。特に、兄弟にとって、初めての骨上げとなった祖父の葬儀の後、家族が揃っていたのが、よほど嬉しかったのか、「焼肉を食べに行こう」と駄々をこね、総スカンを食い、「骨上げの後に、焼肉が食べれんようで、何ができるんなら?」しょげていた父。
やっぱり無為だと思います。
父が77歳で生きていたら、どんな無茶な酒飲み老人なっているかと思います。

いずれにせよ、お酒が悪いわけでも、お店が悪いわけでもありません。出会いのタイミングの問題と私が、変わっているのだと思います。

ただ私にとって、唯一の例外は、岡山青年会議所在籍時で、この会の場合は、二次会に出ないということは考えにくかったです。ただ、基本的には、二次会場も固定化しており、最終年は、会員研修委員会で、2時、3時になることも多かったですが、在籍中に夜の街で、浮いた花が出るような仕組みにはなってはいません。

それ以降、7時半頃から少し無理に誘われる会合もありましたが、1次会が終われば、まず、二次会場に移動することはありませんでした。
特に、それをいわゆる派閥内でも通してしまうので、先輩、同僚議員から、つきあいが悪いと受けとられているのは間違いありません。

もっとも、さしで話そうというリクエストがあれば、大好きな星乃家のカウンターで、焼き鳥で語るということもありました。本気で政治について語り合うなら、場所や時間はどうでもよくて、傍らにお酒や女性が必要だと思いません。いまだに、夜、特定の人が、ムードで決めることって、多いんだろうなぁ・・

そういえば、先日、オンブズマンの方から、「どうせ毎晩呑んでるんでしょ。あなたも、お酒大好きなんでしょ。」と言われました。まぁ、そういうイメージをお持ちになられるにはそれなりの根拠もあるのでしょうから、悪いのは我々の方ですが、一応個人的な事情は、説明しておきました。

ただ、冷静に考えるに、これもひとつ、飲むという単純にストレスを発散する場がなかったんだなぁとも思えます。
今になって悔やまれるのは、どこかで本当にゴルフはやっておくべきだったなということです。人間関係が広がっていたでしょうし、なにより楽しそうです。もったいなかったです。

10月10日(祝、月、体育の日) 冷える体育の日

10月10日(祝、月、体育の日)

 晴れの特異日と言われる東京オリンピックの開催日であった体育の日。10日の今日がやはり、それらしいですが、冷え込むということは、なかなか想像できませんでした。
 今日は、いろいろありました。これからしばらくはたいへんです。

【親の愛】
 地球がどうなろうと、世の中がどうなろうと、やはり絶対に揺るがないのが親の愛だと思います。世の中で、これは、絶対のものであるというのは、親の愛情と人は誰もが必ず死ぬということだと思います。
 特に、父親が息子や娘に対して持つ愛情に比べて、母親の愛情、特に息子に対する愛情は、核兵器も絶対に勝てない宇宙一のエネルギーだと思います。

 9月定例会のTV中継で、頻繁に汗を拭く私の後ろ姿を見て、体調が悪いと心配してくれたのは母親だけです。実際、9月定例会は、ズタズタでしたから。
 とにかく、ストレートで直球を放り込んできますから、なかなかたいへんです。

 父親の息子への愛情は、多少複雑です。特に、思春期になれば、どこの家庭だって、父子が、友達のように接することなどなくなるでしょうし、なんとなく、お互いに気遣いながら、父親の存在自体が、鬱陶しく、父親がなんか言ったら、結果的に皮肉になるようなどこか滑稽なものがあると思います。
 あくまで結果的に、壮絶な喧嘩になって、病院から帰ってきた真夜中に、父が何も放送していない砂の嵐状態のTVをずっと見ていた姿を思い出したりします。その頃、父は、まだ40歳でした。
 最初の選挙の時に、人工透析を受けた帰りに、私のビラを配って回ってくれたこと。亡くなっあと、父が、私の新聞記事のスクラップをつくってくれていたこと。

 少しだけ本会議を抜けさせてもらいながら、ICUに行き、脳梗塞で、分かっているのか分からない父と言葉にならない会話をしました。結果的に、ICUで、動かなくなった父を最初に確認したのは、私になってしまいましたが、あの1週間の間に、一生分の会話が通じていたと信じたいです。
 
 父親が息子にしてやれることは、死に様を見せることだと思います。思えば、あの時、親父も大変だったんだなぁと、あとになって初めて、苦労や愛情が分かる。
 すこし、息子に伝えたいことを伝えてはいるのですが、今は全部は分からないかもしれません。だからこそ、【佐藤真治のこころ】のように、今、文章を残しています。

 それにしても、母親の愛情は強烈です。52歳の息子が、心配だ、大丈夫だ、などと、なぜ回されても、こちらはどうして良いやら分らないです。
 後期高齢者を越えた母親に、心配の種を巻き散らしている現状。

 義父母が妻を思う愛情や妻が息子を思う愛情。いろんな方が、私に下さっている思い。そういう思いに、ことごとく傷をつけているのは、外ならぬ私です。
日々、無価値館や孤独感に苛まれて、へたばっています。
 しかし、そういう馬鹿な息子に足して、母親だけは、どこまでも味方なのです。

10月9日(日)天気予報が、当たっていない

朝は妙に冷え込んで、男心と秋の空というけれど、あんまり細かな天気予報が、当たっていない気がします。
【政治が学ぶべきフリーマーケット】

そういえば、入社試験でもありませんが、提出課題は、「女性と浮動票対策」でした。事務所の敷地が、あまりに広大なため、フリーマーケットを実施してはどうかと提案しました。これも、『リビングおかやま』にいたからこその発想であり、リサイクルという言葉も一挙に普遍化し、あまり大規模なものはまだありませんでしたが、ガレッジセールのようなものも、パラパラと出てきた時期です。

12月8日に入って、翌月のスタッフ会議で、提案となりましたが、先輩秘書からは反対の声が圧倒的に多く、やるなら人に迷惑をかけずに一人でやれということでした。
そういうことでしたらと、3月実施に向けて、スタッフはこちらで集め、『リビングおかやま』に恩返しでもありませんが、実行委員会主催で、会場を清輝橋マクドナルド店斜め向かい広場とすることで、10万円を超える広告を出し、清輝橋や岡南地区に、私自身がビラを配ってまわり、街宣車で、これまた私自身が、宣伝してまわりました。
広告を出したのは、その1回きりですが、「ご近所の皆様にご案内申し上げます。来る〇月〇日日曜日午前10時より、マクドナルド清輝橋店斜め向かい広場におきまして、第〇回フリーマーケット ㏌ OKUDAを開催いたします。衣料品や雑貨など、たいへんお安くなっておりますので、どうか皆様、、奮って、ご来場くださませ。」と街宣車では、しばらく回りましたし、最終的には30号に向かっての模造紙の案内だけで、全て事足りるようになりました。

1回目こそ何かとたいへんでしたが、2回目以降、割と早い時期に広告代が回収でき、スタッフに手当てが出せたり、事務所に、トイレットペーパー代など、場所代もはらえるようになりました。

場所が場所なので、もちろん、トラブルは、なかったわけではないのですが、警察やその筋の方に、かえって気を遣っていただいたかもしれません。
それ以外にも、トラブルと言えるようなトラブルは、ほとんどありませんでした。

考えてみれば、雨で延期というのもすごく少なく、真夜中に、チョークでブースの仕切りを書いたりなどということは、しばしばありましたが、それを苦痛と思うことは全くありませんでした。むしろ、楽しみで仕方ありませんでした。

日曜日の当番は、たいていが大好きな秘書の大先輩のMさんだったので、事務所の2階からのんきに眺めていたのも、良い思い出です。

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もちろん、暗黙だったり、慣習上できてきたものも含めたルールがあり、ルールを順守していただくのが前提で、外部から何かある場合には、必ず守るというのが、主催者の責務ですが、えらいもので、100店舗も店が集いだすと、活力はもちろん、不思議にコミュニティや文化が自然発生的に生まれてくるということがあります。
楽市楽座ではないけれど、政治の原点は、そういうところにもあるんじゃないか。と強く感じました。
設営の喜びは、多くの人の笑顔で、全て吹っ飛ぶものです。

そして、業界的には、かなり変わった奴がいると評判になったのは、このフリーマーケットだと思います。
事務所開きや出陣式に、2~3000人の人を呼ぶというのは、至難の業で、ましてや、お金をかけずに、これ以上ない一般の方が、日常的に事務所に立ち寄るということは、普通はありえせん。

結局、1月を除く隔月の第2日曜日、年5回開催してきた『フリーマーケット in OKUDA』は、私が退職するまで、25回続きました。

10月8日(土) 蒸し暑い一日

妙に蒸し暑い一日です。

【風が吹くとき その2】

私の大好きな映画に、ニコラス・ケイジ主演の『天使のくれた時間』という佳作があります。もしもあの時、違う選択をしていたら二人はどうなっていたんだろう?

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風が吹いて、帆を張ったら、全く思わぬ展開になっていました。

 

しばしば考えるのですが、あの時、会社に残っていて、何年かかけて、新卒の給与からスライドされて、共稼ぎしか考えられませんが、結婚して、子どもができて、思い切り長期のローンで家を建てて、今頃は、役職もついていたりして・・という人生は、やっぱり良いなぁと。

人間は、本当にまじめにコツコツと生きるのが一番だと思います。もちろん、ライバル会社や競争相手はいるでしょうが、心から憎む必要もありません。なにより、誰かをどこかで馬鹿にして、自分のために利用するような生き方の人間に波長を合わせるような努力をすることはありません。
土曜日や日曜日の夕方に、家族でスーパーで買い物をすることに、後ろめたさを感じることもない、連休はしっかりと休んで、友達と出かけて、入ってくるお金を性悪説のごとく常に監視されるようなこともない。
別に、どこかに行けば声をかけられたり、挨拶をしなくてはいけないという人がたくさんいる有名人である必要もありません。
家族で、健やかに、朝御飯と晩御飯が食べられて、日々穏やかに暮らせれば、それが一番幸せなことです。

ただ、小さな帆は、その逆の風を受けました。それを運命という人がいるかもしれません。
特に、亡父が、宅建の関係で旅行に行った夜に、この話になり、県議会議員の先生については、「ちょっと待て」という話になりました。なにかあっても結局どうにかすると信じてくれていたのか、こういうことで、父から止が入ったのは、初めてでした。

また、この話では、伯母も動いてくれたのだと思います。弓之町の従兄妹の家に泊まりに行くとか、中学・高校時代に我が家が大混乱しているときにいろいろあった以外は、非常に賑やかで派手なこと政治が大好きな叔母さんという印象でした。どうも、自民党女性局では、ブイブイ言わせていたようです。
その頃、代議士ご夫妻の名前から一文字ずつとった「一枝の会」の事務局長として、ある代議士の代替わりの時に、女性戦隊を持ってきてしまったということで、その筋として、その県議会議員の先生とラインが合わなくなっており、
それは、ちょっと困るということでした。

また、伯母は、片山虎之助先生のゆり子夫人を支える女性の会「ゆりの会」の会長をしており、従妹が花束を渡す役だったようです。
そういった御縁もあり、とても身近に感じておりますし、本当に、ゆり子夫人からは、いつも、心配や労いの優しいお言葉を頂戴して、感謝しています。

そして、事務所に入ったのが、12月8日。叔母は、翌年の成人式の日に、あっけなく亡くなってしまいました。まだ50才でした。
ちょうど津山に上がっていた帰りに、電話に出られた代議士が、後部座席に寝転んでおられたのを思い出します。

思えば、それで、今から思えば、後ろ盾を失った気がします。そして、伯母のことは、忘れられてしまいます。
今、本当に夫婦に対して、いじめのような誹謗中傷の言葉を浴びせてくださる人たちがいます。私から見ると、固まり具合が、スケバンのような下品な素行にしか見えません。
よほど自分に自信のない(もはや侮蔑の対象になっているのに本人だけが気がついていない)コンプレックスの裏返しでしかないのに、トップでないと気が済まず脇を子分で固めたがるスケバン。底意地の悪い顔をよく鏡で見てみろと思うのですが、もはや、あ、ネコが歩いてるなぁというぐらにしか思っておりません。どうか体育館の裏に呼び出さないでください。
こんな馬鹿なこともなかったろうなぁ・・・。

 

ところで、被害者友の会会長が紹介してくれたこの時の県議会議員というのが、故森正人先生で、普通は、森先生が、激怒され、業界入りなどできるはずはなかったのですが、ゆえあって代議士秘書にという展開をよく赦してくださったと思います。
メンツ丸つぶれも甚だしいのですが、やはり、故橋本龍太郎総理に、それだけ愛され、大切にされたのだと思います。元秘書に対して、いまだに橋本家のご配慮があり、涙が出ます。
可能性を引き出して頂いたからこそ、順送りされる、本当に森先生には、感謝のしようがありません。

おまけに、それから5年後、私は県議会議員に出ていくのですから、いよいよ性質が悪いです。
時々、飲み会で、「佐藤君は、僕の秘書になる予定だったんだ。」と言われることもあったのですが、あまり盛り上がったことがないので、業界でも、あまり知られていないと思います。

もっとも議員としては、森会長に、佐藤事務局長という立場で、他の議員が言いたい放題いう中を議員定数削減や岡山市の政令市推進に持っていきましたが、これも、森先生なくしては、できなかったことです。

いずれにせよ、親戚で、丁稚奉公とはえ政治の世界に入ったことを喜んだのは、叔母しかいませんでした。
父方に議員はおりませんし、母方の祖父が、大庄屋だったので、推されて、児島市議会議員を1期だけやったという以外、議員になった者もおりません。
正直に書いて、身近に選挙があるような暮らしは、できるだけ避けるべきだと思います。

10月7日(金) 23年前のこの頃は・・

あぁ今日の佐藤真治のこころは、23年前のこの頃のことです。23年かぁ・・

山根康広=『Get Along Together』

 

【風が吹くとき】

政治の世界では、よく風という言い方をしますが、ひとたび、風が吹き始めると止まらないと感じたのは、郵政民営化選挙と政権交代選挙です。まさに怒涛の如く、ムードが盛り上がり、もはや誰も止められない、正直なところ、改革政党自民党です!!改革には痛みを伴う!と叫んで、街宣車への声援が止まらない郵政民営化選挙など、今から思うと、狂気の沙汰でした。

時には、個人にも、そういうことが起こって、風に向かって帆を張った船が、あっという間に大海に出ていき、一挙に注目が集まるということがあります。
しかし、自力でなく流された船は、明後日の方向で、難破してしまうケースも多いと思います。そうなると、かえって風が吹いたのが良かったのかどうなのか、見苦しいなという感じになってしまうことすらあります。

ただ、政治の世界に限らず、どんなの人生にも、大なり小なり、自分でもよくわからない風が吹くことがあると思います。決して爽やかな春風とも限らず、なにも、そこに帆を張りだす必要もないのですが、帆を張ると、するすると流されてしまうような説明できないことというのがあります。
願っても進まないのに、願ってなかったのに進みだす、人生には、説明できないこともあります。

結局、岡山リビング新聞社には、1年在籍していないのですが、私の方に、恨みがましいことがあるわけがありません。むしろ、楽しい思い出しかありません。
遅れて出てきたダメな社会人を本当によく面倒を見てくださいました。
今も、お付き合いはありますし、独立されて、出版社を起業された方もいて、ライターの一線で頑張っている方もおられます。ただ、高校の1年後輩の編集部のN女史とは、しばしば衝突しましたが、もう会うことができません。

ペイドでも、どんな広告でも載せるわけでなく、地域や生活に根差した情報を女性の視点から発信する「暮らしの手帖」のような気概があります。そんなに早く去ることになるとは、自分でも、全く思っていませんでした。

秋に、島根原子力館おもしろわくわくツアーの添乗員を終えて帰ってきたときには、若い女性参加者から、一緒に写真撮ってくださいと言われてみたり、あにより、バスを降りるときに、本当に多くの方から『リビング岡山』への感謝や励ましの言葉をただいて、無茶苦茶嬉しくて、これからも頑張ろうと本当に胸に誓ったのです。

ただ、その夜に会長さんから手紙が届いていました。実は、後で知ったのですが、私がいた1年が、会社史上最低の年と言われるほど、実績が悪く、要は、てこ入れだったっと思います。ただ、誰に送られていたかもわかりません。
そこに、他の会社から声がかかっている者があれば、引き留めはしないというような文章もあり、当然、不要社員に入っているんだろうなと素直に感じました。

そして、その夜、本当にまさにその夜、現在の佐藤真治被害者友の会会長から、「地方議員の秘書になる気ねぇ?」と電話がかかってきました。
「あ、今なら、円満退社で行けると思うで」と即答。
なんだかわかりませんが、急に政治の方に、風が吹き始めました。

会社の方は、10月で退社。僅かだとは思いますが、遊休も使わず。ボーナスも退職手当(あったのか???)も頂戴せず、特になにもなく。
おそらく、後のことがなければ、記憶の片隅に埋もれる幻の社員だったと思います。

一方、来週から来てくれ、名刺を作っとかなきゃなという話は、私関与していないようなところで急展開。地方議員の秘書ではなくなりました。風の流れです。
11月までは、スーパーの試食売り場で、男性マネキンのようなことしておりましたが、そもそも秘書ってなんだろう?ということすら知りませんでした。