10月15日(土)
予定と大きく異なり、穏やかで楽しい入院とはいきませんでした。人生いろいろあるなぁ。そんな中、ベイスターズは本当によく頑張りました。堂々とした見事な勝負でした。
来年は、ペナントを奪取すると思います。
【秘書気質 3】
その後、1996年の解散総選挙は、初めての選挙であるにもかかわらず、極端な印象がありません。選挙戦に入れば怒られるのが秘書の仕事という意識がありましたが、怒鳴られた印象など皆無でした。
そのころまでには、ゼンリンの地図を使い担当学区だけのマップを作成。いわゆる地位の主要な方やお役の方は、すべてマーキングし、どの公会堂で、ミニ集会をし、どなたに挨拶して頂いたか、地方議員を誰を呼んだか、何人ぐらいいらっしゃったか、すべて、書き込みました。そして、選挙カーが、どこに立ち寄れば、地域の方にどれぐらいお越しいただけるか。また、大規模な演説会なら、どこの会場に、どういう手順で、ご案内すれば、おおよそこのぐらいは、お越しいただけるので、あとは、企業や団体の方にを動員を願いすれば、形にはなると、10学区分、説明ができる状態でした。
ミニ集会を段取りして、自分でビラを配って回っていれば、少なくとも、選挙のときにだけ顔を見せやがるなどという批判は皆無で、かえってなぜか地域の方からも褒められて、当時は、応援の方もかなり入って下さっていたので、割り振りが用意で、やっぱり褒められて、正直なところ選挙戦に入ると、かえって楽になった印象すらあります。
ただ、今後、政権の動きにドキドキしながら、いつあるとも分からない衆議院選挙や参議院選挙や知事選挙に、いったい何年関わっていくのかと漠然と思いましたが、34歳の私には、自分自身が、直接政治に関わりたいというのは、具体的な目標にもならず、あいかわらず、フリーマーケットを続けるだけでした。
そして、橋本総理退陣となった全国的に大敗北となった1998年7月の参議院選挙のあと。
ちょうど、代議士婦人の運転をしていたとき、岡山市の県議会議員の選挙区が分区になり、引退される先生も出てくるという話から、「真ちゃん出てみたら」とたぶん冗談で言われたのだと思いますが、当時の現実に、夢ですらなかった話。
で、後日、代議士に「来年の県議選にみたいんですけど」と申し上げたら、「あ、いいんじゃないの。」と妙にあっさりと。
秘書になったのが、1993年暮れ(平成13年)。1999年(平成19年)の県議選に?
しかし、世の中、そんなに甘いものではありません。