10月12日(水)
【街頭演説】
議員の必要条件として、街頭演説というのはあると思います。決められた箱の中で、拍手を受けることが大前提で行う演説はありますが、基本はやはり、白兵戦であり、マイクが最大の武器だと思います。ただ本当に一人で行う街宣は、ド根性が要ります。
少し前の5年間は、私が、南区のどこかで、ひとり街頭に立っている姿は、日常風景であったと思いますが、党務としては、もう少し前のことです。
平成19年第一次安倍政権のもとで、夏の参議院選挙の苦戦が予想されました。ただ、片山虎之助候補については、盤石で、期間中も、全国応援行脚に行かれるだろうからと、自民党青年局長となっていた私も、少し早めに全県下を県連の最大の街宣車あさかぜで、回りました。
それにしても、反応の悪さに驚きました。片山先生は、演説の時に、左ポケットに手を入れてしまう癖があるのですが、それが、とても横柄に見えている感じがして、またしばしば、そういう指摘を受け、なにより沿道の反応が不思議でした。
郵政民営化選挙の時のフィーバー状態でなく、かといって、政権交代選挙の時の完全無視でもなく、ただ、手を振ってくださるような方が、ほとんどおられませんでした。これは、おかしい、まずいんじゃないか?と肌で感じました。
そこから岡山駅前で、青年局主催の街頭演説を毎週水曜日行うようになりました。
ご案内の通り、そこからは、姫の虎退治です。後のことを思うにつけ、岡山県にとっても何がよかったのか?という、あってはならない惨敗でした。そして、平成21年9月まで、90回。その後、青年局長から遊説局長になって、平成23年6月まで、さらに77回、駅前街宣を続けました。平成22年1月には、蓮岡青年局長のあたたかい推薦もあり、党大会で、党青年局長から優秀党員の表彰を受けました。
駅前街宣は、停止街宣が、ドレミ前か、高島屋前か、西口前の3か所しか許されておらず、その場所取りや車を出してくる作業も大変で、夏も冬も、県連職員さんが本当に頑張ってくれました。自民党にとっては、暗黒期ですから。だからこそ、やり続ける意味があると思いました。
特に、県連青年局ですから、各選挙区支部の活動とは別と考え、曜日は、水曜日固定。弁士は、県議会議員のみ。山下たかし代議士や山田みか候補の街宣デビューも、ここです。
最初あさかぜで、やっておりましたが、見下ろすような感じが嫌で、上には上がらず、結局、小さな街宣車で行いました。 特に、あさかぜについては、私自身、特別な思いがあり、県連にとっての旗艦。その船に、軽薄に上がられると、ブチ切れそうになります。
ある時期から、南区でのひとり街宣とかぶってきました。水曜日の朝以外は、ひとりで、幟を立てて、ハンドマイクで、街頭に立つ。
毎朝、7時に到着、7時半から、調子に乗ると、1時間半続けました。法的には、厳密に行くと、いろいろあるかもしれませんが、とにかく知名度不足の中、十数か所のポイントをグルグル回りました。
この時の私のこだわりは、絶対に笑わない、手ふりだけするようなことはしないということでした。政治活動として、お伝えしたいこと、申し上げたいことがあるから、ハンドマイクを持って立っているのであって、看板の前で、あちらの車、こちらの車に、笑顔を振りまく行為は、やはり恥ずかしいと思います。それを頑張っているというのだろうか?
誰しも、気分の良くない朝があるでしょう。その時、雨に濡れながら、あるいは、真夏の太陽に照らされながら、誰も聞いていないのに、なにやら本気で話し続けている朝のバカ。こんな政治状況で、なにが嬉しゅうて、ヘラヘラ笑っとるんなら、このあほんだら。というよりも、はるかに立派な阿呆だと思います。朝の街頭演説は、エール交換です。
そして、傍らで聞いていただければ、なぜその場で話しているのか、地域の課題や政策等について、本気で話しているのも、ご理解頂けるような街宣を続けてきた自負があります。自分の名前の連呼など決してしない、必要なことを申し上げてきたけれど、聞いてくださる方が、少なかっただけのことです。
かように、街宣で、愛想をしないため、しばしば怒られました。手を振ったのに無視したなどというお叱りは、何度頂戴したか分かりません。
しかも、自分の身が、ある種潔白でないと街宣には立てません。「税金泥棒!!」と言われたり、政務調査費のことが問題になっているような時期は、怖いこともあるし、後ろから、おどりゃか今何言うた?と言われる怖さは、常にあります。
それでも、その場で、言いたいこと、やりたいこと、やるべきこと、やったことがあるからこそ、街宣には、毎日立ってきました。
そして、術後も。
他のどこの阿呆が、抗がん剤の副作用に苦しみながら、今までと同じように街宣を続けられるか。
顔は、どす黒く、爪はおかしなことになってきて、ボタンは自分で止められない、なにより、少し冷たいものを痛いと感じるのに、真夏と真冬も街宣を続けました。本当に良く耐えました。
多分、こうした街宣は、軽く、2000回を超えたと思います。
誰かが、今、街宣に立てていない私を選挙前だけの活動だったのかと揶揄するかもしれません。甘受するしかありません。
ただ、はっきり申し上げたいことは、誰よりも、フィールドに戻りたいのは、私だということです。