10月26日(水)

【秘書気質 9】

 

1回目の議会質問から、ともかく連続で続けようと頑張っていたのですが、2回目で、自分でもはっきり分かるぐらいの低迷。

そもそも、自民党内には、そんなに一般質問はやるもんではない的な雰囲気があり、当時は、小田春人議員が続けておられるだけでした。

自分でも、明らかにひどいと感じながらも、どちらかと言えば、笑いのひとつでもとってやろうというぐらいの色物で、多分、変な細かい質問の連続でした。ただ、その時期から、インターネットを駆使するようになり、少しずつ傾向が変わり、NPOやNGOやDVや、自民党から出難いような内容で、逆に、あいつは、何党ならと揶揄されるあたりで、自信がついて来ました。先輩議員は、NPOを「んぽ」と読まれていましたから。

 

しかし、岡山県政に新風を吹かせるとか岡山県を創造的に破壊する(道州制)とか、自民党へは番場蛮の気持ちですとか、ほざいていたわりには、なにかに挑戦すれば失敗。にもかかわらず、初当選の年に、ちゃっかり結婚みたいな自分に対して、議員として、全く自信がありませんでした。ただ、アホはアホなりに、できる挑戦はし、ともかくできることを続けていこうという以外にありませんでした。

 

そんな時期に、代議士の政治資金パーティーがあって、初めて議員として、先輩議員とずらっと来賓で、大舞台に並ぶ場面がありました。私も、隠れるように立っていて、大重鎮の故門木和郎先生が、乾杯の音頭をとられる段になり、「こんなロートルが、毎回、音頭をとっても、おもしろくありますまい。」と言われ、「おい、佐藤君、乾杯の音頭をとれ。」と指名。驚くのはこちらで、戸惑いながら、会場から、声も上がったりして、何を言ったかさっぱり覚えていませんが、初めての大舞台を頂きました。

なにかよく分かりませんが、会場では、その風景に、泣いてくださっている方もおられて、なにより、門木先生が素晴らしいという声が多くありました。

 

考えてみれば、新しい選挙区割りのもと、他派閥の領袖もいる自分の選挙区に、自らの派閥で、新人候補を含めて11人中4人の議席をとりに行くというのは、普通はできないことです。4人に共通していたのは、皆、国会議員の秘書上がりということです。

こういう業界のことですから、もちろん、そういうことのために、大きな力を頂いていたというのを伺ったのは、つい約2年前のことです。

 

そう言えば、選挙戦の最中にも、こういうことがありました。私の選挙事務所に、ダースベーダーのような低音の苗字だけ連呼する門木先生の本隊車が入って来たとのこと。むろん、いわば小なりとはいえ、敵陣営に、巨大陣営の本隊車が入るような話は、聞いたことがありません。政令指定都市になって、別選挙とはいえ、同期間に行われる岡山市の市議会議員の選挙のための市議候補の選挙事務所に、本隊車を入れさせて貰うという発想も、私にはありません。

この門木先生の文字通り陣中見舞いは、本来の自分の陣営からこちらに抜けている方や団体への「ご挨拶」というのは、私には分かるのですが、素人集団には、そうは映りません。わざわざ門木先生が、応援に来て、一人ひとりに握手して、「佐藤君をよろしく」と言ってくれたとなっておりました。

やっぱり迫力が違うな~。頼りになりそうだなぁ、あっち入れるか。という話に盛り上がり、「良い息子さんが、できましたなぁ。」と言われて、母など大喜び。

だいたい、私も、腹が立つと言うより、すげぇな~と単純に感動する始末でした。

 

当選後も、政友会という歴史ある派閥よりも、門木派に入れて頂いたという思いが強く、それは、今も変わりが無いかもしれません。

ダースベーダーを突き抜けた好々爺のようで、私には、一挙手一同、その発言が気になりました。

 

本当にどうしてもどうにかしたいのでご相談がありますということで、足守の北の東山内のご自宅に、朝7時前に、夫婦で伺ったことがあります。和菓子が大好物だと言われるので、某抹茶菓子をもって。

その時の内容が、表町商店街からノンステップバスの導入を促進して欲しいという陳情を頂いたのだが、なんとか通したいので、ご助言くださいというものでした。本当にそれだけのお願いで、ご自宅に夫婦でお邪魔するなんて、今の自分からしても、本当に純粋なかわいい真面目な奴としか思えません。今の私なら、違うやり方をすると思いますが。

しかし、そういうところを評価頂いたかもしれません。生き馬の目を抜くような時代を生き抜いてこられ、毀誉褒貶ありながらも、大きな時代をつくって来られた先生からすれば、かえって新鮮だったかもしれません。

 

津島のお宅で、派閥の月見があるというので出掛けたら、鮎を焼いて、本当に月見をするもので、お茶を頂いて、なにか凄い芸術作品をお見せいただいたのですが、ただただ、風流を感じただけだったのを覚えています。時代はあったとはいえ、なにがどうしたら、どうなって、こうなっては、分かりませんし、過去やその評価には全く関心が無く、ただ単純に、今が格好ええな、やはり、言葉無くとも伝わる風流が、目指すところだなぁと思ったものです。なにしろ、緊張すればするほど、猛烈な早口になった私にとって。

いくら平素ベラベラ喋ろうが、ポイントでわずかの言葉だけで刺す。存在が言葉を越える。噺家ではないですが、口座に上がって、寝る姿だけでもみたい志ん生のような境地にいつか達したいと思っていたのですが・・・。

 

それから花見というのがありました。後楽園の端っこ方で、弁当を食べたような気もしますが、そういうのは、ほとんど覚えていません。

ただ、プラザホテルの宴会場で、門木先生の挨拶の際、カーテンを横に大きく開くと、

背景の後楽園や旭川は、満天の桜。このとき、「散る桜・・残る桜も散る桜・・」。あのときの風景と覚悟を促す言葉が忘れられません。なにか任侠のようでもありますが、本来そういう世界なのかなと思ったりもしました。一方では、守られている安心感だったかもしれません。元来、飲めや歌えやを好むタイプではないので、長らくひとり派閥でおられ、孤独感もあったからこそ、伝わる派閥への配慮があったと今となっては気がつきます。

おそらく、幹事長に就かれたかったと思いますが、いろんなパワーバランスは、私には、よく分かりませんでした。ともあれ、派閥のイメージは、厳格なそういう感じでした。

いずれにせよ、晩年をご一緒しただけでしたが、秘書上がりの大先輩の薫陶を受けたのは、今でも、喜びです。

 

晴れの国おかやま国体・輝いておかやま大会を秋に控えた2005年(平成17年)のあの狂ったような夏の郵政民営化選挙。その年の新年早々に、門木先生は、ご逝去されましたが、あの夏、門木先生がおられたら、きっと違う仕切りをされ、その後の大混乱もなかったのではないかと悔やまれます。文字通り、大切な部分を含めて、自民党がぶち壊されることは、なかったのではないかと。

あの夏は、皆が、おかしかったです。

 

ある方が、門木先生に、「佐藤君は、どうですか?」と聞かれたら、「ぐるぐる回って時間がかかるけど、前には、進みょうる。」という答えだったとのこと。「そうですか、ぐるぐる回ってるだけかぁ・・」と申し上げたら、「違うで、前には進んでいると言われたことが、重要なんじゃ。ぐるぐる回って、どっちに行って良いか、全然進まない議員の方が、多いんじゃけ。」と。

・・・・門木先生、私は、今、宇宙ゴマです。