10月30日(日)

【秘書気質 12】

 

あくまで組織論として、あるいは、親分子分の関係だからこその選挙区貼り付けでしたが、「志願」は、いつのまにか私個人の暴走行為になっていました。

むしろ名誉すら感じられる行為とすら感じていたものが、愛する地元を捨て、選挙当選目当てに、勝手に乗り込んできたという話以上にはなっていませんでした。県連会長からの公の場での直接の説明は無く、何度も組織のために動いたのだと公の場で伝えて頂きたいんだという旨は、伝えていたのに。

 

その後、正式に区割り貼り付けが議会で議決された日に、電話がありました。次回の選挙で、定数4人の南区に、今後、自民党が候補者を2人立てなくてはいけないのだが、ついては、○○さんに、南区で準備をしたらどうかと言おうと思うが、どう思う?という電話でした。

自分の耳を疑うほど、私の中では、理解の範囲を超えていたのですが、確かにそれが、組織論だと思います。私が、組織論で動くのですから、組織を固めるのは当然です。

ただ、その日、私は泣きました。

 

 

これはもうごもっともだと思いますが、地元の市議の先生からは、「勝手に来て通ると思うとるんか。」と責められ、怒る人はいても、褒めてくれる人や待ってくれる人もおらず、ただの裏切り者のようになりました。

どうして良いのか分からず、その夏に解散総選挙が予想される中、私は、候補者のパンフレットに、北区の方には、お詫び状、南区の方にも、やはり挨拶のようなお詫び状を書いたものを入れ、党組織の決定で移動したと説明を書いたものの、自分で、なにをしているのか、さっぱり分かりませんでした。

その後の戦対会議では、北区からも、南区からも声をかけて貰えず、益々意味が分からなくなっていました。もちろん、選挙戦に入っても、決起大会など居場所も無く、党の遊説部隊にいましたが、もはや意味不明の日々を送りました。

これが、私にとって、屁の役にも立たなかった2009年(平成21年)夏、麻生内閣のときに、自民党が大敗北をした政権交代選挙です。緊急戦隊会議で、大泣きしただけ。

引き続いて、9月には、高谷前市長の2戦目を目指す市長選に突入。この時も無力。

 

なにをして良いやら完全に自信喪失していた私は、そこから、原点に立ち返り、幟を立てて、毎朝辻立ちを始めるしかありませんでした。

 

そこから再生をかけて、自民党は、南区の灘崎、小串、甲浦を含む第2選挙区に、一般公募で候補者を募集。暮れまでには、山下たかし候補予定者が、内定しました。

 

年明けに不思議な事がありました。ある新年会で、県連会長夫人の横に同席させて頂いた妻が、「真ちゃんが、なにかグチャグチャ言っているらしいけど、自分で行くって言ったんだからね。」と言われたと泣きながら帰って来ました。

それは、異動費用等に、やれ引越し費用に敷金だ礼金だ、件の挨拶文だで、200万円近くかかりましたが、そういったものはもちろん、今日に至るまで、どこからも一切金銭的な応援がなかったこと含め、本当に切実な経済事情があることは、当然、妻も知るところでした。

新婚から10年暮らした地域にもなじみ、愛育委員でやりがいを持っていた妻は、息子の転校の可能性まで含めて、いきなり私が決定したことには、全く賛成していませんでした。そもそも、彼女は、鹿田幼稚園から岡山大学に通い、そしてそれまで、北区以外に住んだことは、ありませんでした。彼女にとっては、生活環境を変える必要は全くありませんでした。ある意味、阿呆な私の最大の被害者です。

そのあたりも理解され、妻には労いの言葉すら頂けると思っていたのに、なぜそういうことになるのか、いまだに不思議です。

結婚後今まで、妻の苦労は並大抵ではありません。全て私に起因しています。

だからこそ、妻子にだけは優しくして欲しい、そんな願いは、叶いません。どうして?

 

そうしたもやもや感は、常にありますが、それ以上に、南区は本当に地域整備の面からしても、県の仕事は圧倒的に多く、やらねばいけないことも多く、議会質問も緩めず、毎朝街宣しており、本当に仕事は充実していました。なにしろ、南区の現職の議員は、事実上公明党の重鎮と自民党の私だけで、その責任も強く感じていました。