10月28日(金)決算特別委員会

今日は、委員会に復活どころか、来週から通算3度目の入院と相成りました。車椅子で出席も考えていたのですが。部局の審査に入っているので、執行部にも、体調の事は、どんどん伝わっていることでしょう。

良かったなぁ、ちまちま言う議員がいなくてというのは、県にとっては、大損失で、後半戦、取り戻したいです。

 

【秘書気質 10】

 

こうして、自己肯定感が極めて低く、秘書気質の強い私は、結局、学生時代とは違った形で、また呪縛の中にいたのかもしれません。

一番大切な部分をやはり、自分の中で作り上げた実態の無いものに委ねていたのかもしれません。結局は、どこまでも甘えていたのだろうと思います。「秘書気質」と書いてはきたものの、こんななにかルールがあるでなし、幻に承認されることに、親分子分のような理想の関係があると勝手に期待し、幻影に酔っていたのかもしれません。今の秘書たちの方がはるかに現実的でしょう。

NOとは言わない、あるいは、わざわざ先回りして考えて、自分を軽いものにして、結局は、自分を大切にしていない。ただ、20年以上前とは違って、家族まで犠牲にしてしまいました。

それを今は果てしなく悔いています。

 

それが、いまだに謎が多いとされる私の選挙区移動についての根本です。

当時、岡山市の政令指定都市化を前に、岡山市内は、4つに分区されました。私は、市のふれあいセンターにほぼ沿った6つの区になると思っておりましたが、4つとは、全くの想定外。中央区的なものが必要だと今でも思いますが、なにがしかのパワーバランスの結果については、市が決めることです。

ただ、岡山県議会議員の選挙区も、区に沿って、分割。第一選挙区は、加賀郡・岡山市北区選挙区と南区選挙区に分かれることになりました。

 

そもそも定数1を減した12人の選挙区定数を8人(本来は9)と4人(本来は5)に分ける。しかも、当時、南区を地盤とする森先生のご不幸もあり、北区が地元ばかりの議員を南区に貼り付ける必要がありました。当時の民主党は、結局、誰も貼り付ける異動ができず、かといって、議席数4の選挙区に、公明党の議員のみという状況は考えられませんでした。

とはいうものの、私の家とて、議員の中でも最も古く明治時代から旧岡山市民ですし、他の議員も南区に対してどうというより、地盤を変えたい議員などいませんでした。しかし、異動の指名など、誰もできません。

もちろん、実は法的には、籤により、当面の選挙区に張り付き、次回本選は、どこからからでも出馬できるというのはあるのですが、貼りつきましたけれど、こんにちはさようならとは言えません。少なくとも、野球にたとえるなら、10勝が狙える選手でなければ、これまた南区に対して、自民党の組織として、失礼なことになります。

 

中には、今更ながら、政令指定都市反対と言ってみたり、籤なんか死んでもひくかという議員がいたり、2区の国会議員から異動を進められた最も期の浅い議員が手を上げて異動すべきだと本人にも申し上げ、それがベストだったと今でも思うのですが、頑なに拒否し、行き詰っていました。2月議会上程までの時間がありません。

 

そこからバインタインデーの時の逢沢代議士と私の会話の最後は、こうです。

「もしも、逢沢代議士が、佐藤、お前が南に移れと仰られたら、私は、それを拒否できる立場にはないと思います。」

「よし、分かった。君は、県連会長逢沢一郎のたっての願いで、南に異動してくれ。天野幹事長には、俺から連絡する。」

「分かりました。」

それが全てです。

 

あるいは、2008年(平成20年)6月2日に、財政危機宣言が行われ、岡山県政最大の危機であった一方で、総務委員会委員長として、翌年4月の岡山市の政令指定都市化移行を推進してきた責任も感じていました。

あるいは、亡父の遺産相続は放棄しており、持ち家も無い。我が家も、いつまで平和町にいられるか分からない。身内の事情で、少しでも彼を苦しめなくてすむ。政令指定都市になって、無用の長物とされる県議会議員は、活動範囲を幅広くする必要がある。今の南署のできるもっと以前にあった泉田配送センターが佐藤陶器店の終焉の地となったが、当時住んでいた当新田から、再生の狼煙をあげたい・・いろんな理由がないこともないかもしれません。しかし、それらは、補強に過ぎません。

 

全ては、評価されたい秘書気質に起因します。ただ、それは、私が作り上げた幻想でした。全く異動の条件も無く、社内の人事異動のようでしたが、今から思うと都合の良い駒だった気がします。

少なくとも、県連会長自らの仕切りで、直系議員を動かし、他のお客様の議員には、解散総選挙の際は、気持ちよく選挙事務所にお越しいただける。他の議員も、他の議員も活かされる元秘書の最高の自己犠牲、恩返しとまで思っていました。

そういう発想になるのは、まさに青春時代に起因するのだと思います。私の背後になにかあれば、もっと自己肯定感があり、自分を大切にする人間ならば、こうしたことに酔うこともなかったと思います。

 

そして、翌日の新聞には、私が、「志願」して、選挙区貼り付け問題はおさまった形に報道されましたが、志願は志願でも、名誉ある特攻の志願のはずでしたが、「志願」は、一人歩きを始めました。

 

今から思うと、その頃から、癌はできたのでしょう。