10月29日(土)

【秘書気質 11】

 

散々な評価の南区異動「志願」ですが、その最中にも喜びはありました。

2009年(平成21年)4月、岡山市は20番目の政令指定都市に移行しました。ともかく南区の端から歩いてみようと思い、灘崎の奥迫川を訪ねました。本来は、地域への挨拶が、いかに重要かは分かっていたはずですが、全く見知らぬ地を含めて、広大な選挙区を隈なく歩くということ自体に、端から無理は感じていました。町内会長さんや役員さんに御挨拶すら難しいと思っていましたが、それでも行かねばなりません。

渋川までサイクリングしていた頃よく見ていた常山が区境、すなわち、玉野市との境になりますが、当時は、迫川の地名すら存じ上げませんでした。

 

時刻は、夕方近くなっていましたが、区長さんを訪ねたら、奥様が、あのアンポンタンなら、その先にいますとのことで、お訪ねすると、うどんを作られている壮年の方々がおられました。伺えば、県の重要文化財等の天然記念物に指定されている大山桜の桜守有志のアンポンタン会の皆様。

なにしろ、もともと玉野市と同じ選挙区で、私の知名度はゼロ。今回の貼りけの件も、元代議士秘書ともご存じない全く新しい出会いでした。

申し訳ないことに、陽気なアイベンアールのように、桜のドームがあり、ひときわ大きなのが、大山桜。この美しい桃源郷のあることすら存じ上げませんでした。

 

名称は、皆さんで楽しもうということですが、実際にやっておられるのは、山道の整備だったり、本当に大山桜を愛する強い気持ちからの事。

ちょっと往復一時間ぐらいで、登ってこられぇと言われるのを今日は革靴なのでと遠慮して、うどんを御相伴になりながら、人情味溢れる雰囲気が、大好きになりました。

特に、大山桜を守るために樹木医の費用の全額自己負担は厳しいとの事で、たまたまそのあたり首尾よく行き、カラオケ大会などにもお邪魔し、また、夜空の美しさに、感動しました。初めて議員として、受け入れて頂けたという感謝の気持ちは、今も変わりません。

 

その後、平成24年台風からの迫川の堤防整備や再びの樹医派遣や迫川大池の災害対策としての整備等いろいろありますが、肝心の大山桜まで、登れそうにありません。

地域的な意向もあり、必ずしも、私の動きの成果が、私に反映される状況ではないと認識してはいますが、それでも、やっていけるかもしれないと初めて思うことができた、大山桜を私も、しっかりと守りたいです。

 

その後、挨拶に行けば、行った地域で必ず要望を頂戴する状況でした。それは、以前に書いた通りの多さで、特に防災対策の要望は切実で、24年台風のときは、心配が現実化したりしましたが、やるべき仕事の多さに、やりがいは、強く感じていました。

仮に北区にいても、政令指定都市化した岡山市の中心部は、県議会議員が直接関係できるのは、県有施設についてぐらいで(必ずしも今はそう思ってはいませんが)、あるいは、落書き消去活動だけが売りの議員になっていたかもしれないとも思っていました。

もちろん、落書き調査隊から一斉消去、用具の現物支給にいたる活動については、仲間と地域の方々と刻んだ素晴らしい成果だと思っています。ホームページには、【佐藤真治のこころ】で、別扉を作るぐらいですから。

 

ただ、地域に対して、なにしろ確実に自分がすべき仕事があるというのは、ある意味、ありがたいことです。しかも、長年放置されていたり、岡山市が政令指定都市になって、やれ市の所管だ、県の責任だ、建設だ、いや農林だと複雑な話も多く、そのあたりに仕切りをつけていく作業は、強いやりがいを感じました。

さらに、国営かんがい事業や児島湾締め切り堤防の安全対策のスケールにも、新鮮さを感じていました。

直接命に関わる問題で、一般質問に大きくつながるものも、多いだけに。

 

しかし、挨拶回りの少なさは否めず、うちの地域では、あんたはいないことになっているというありがたい言葉も頂戴しました。町内会活動も、事務所と自宅の新たな両町内活動に参加する余裕も無く、最も大切なそういう部分がおざなりになるのは、秘書上がりの議員としては、基本を欠くあるまじき行為であることは、今も十分に認識しています。