10月4日(火) 戦力外通告の季節

パ・リーグの公式戦は、まだ終わってはいませんが、毎年この時期は、プロ野球の戦力外通告の時期です。6日まで、第1陣が続々発表されますが、若手で、育成契約になるのかなと思う以外は、冷静に見て、驚くということは、今年は、少ないです。ただ、若い岡山出身の選手も、複数いて、本当に残念です。

そうしてみると、自分で、引退が発表できる選手は、ごくわずかですし、ましてや引退試合など行ってもらえる選手は、ひとにぎりです。

特に、最近トライアウト合格者の活躍や独立リーグから、NPBに戻って活躍する例が、比較的少ないため、トレードもされずに戦力外通告というのは、本当に厳しいと思います。

議員は、どうなのかな・・・。

 

【コツンと音がする その6】

だんだんタガが外れていく私は、かねてからコンプレックスの一つである運転免許をとろうと考えました。もちろん、日中に教習所に通うのは難しく、個人教習というものあると知り、電話帳で雰囲気で、M先生にお願いすることになりました。
桂ざこばにちょっと似ている鬼より怖いM先生に、今から思うと、誰からの紹介でもなく、よく電話を掛けられたものです。新聞配達が終わる6時半に迎えに来ていただき、朝っぱらから、牧石の旭川の河川敷の練習場で、教習を受けました。
M先生からすると、歴代屈指のセンスの悪さのアンポンタンということなのですが、今から思うと、私は朝からクタクタではありました。
いずれにせよ、郡の運転免許センターで、試験官は、現職警官で、一発試験という実地試験を受けなくてはいけません。教習所では、それが免除ですが、本当は、一番免除してはいけないところだとは思います。
私は、ダメじゃないかとM先生も諦め気味でしたが、3回目でなんとか合格しました。
ただ、不合格になって、締め切り堤防をトボトボ歩いて帰る情けなさというのは、今も忘れられません。

街中のドライバーの運転を見て思うに、巻き込み防止のキープレフトがほとんどできておらず、すぐに、小渋滞を起こさせます。スロ―インファーストアウトの基本ができておらず、エンジンブレーキを使わず、やたら、ブレーキを踏みます。後続車に絶対に急ブレーキを踏ませないというのが運転の基本ですが、ウインカーでできるだけ早く自分の今後の行動を知らせるということすらできていません。後続車の表情を常にバックミラーで、確認する必要があるのに、車内のミラーは、明後日の方向を向いています。マナーというよりも、基礎の問題で、M先生なら激怒、一発試験など絶対に通るわけがありません。
ともあれ、今、私は、ゴールド免許。
ただ当時は、履歴書には書ける免許はとったものの、そもそも自動車がありませんでした。

新聞配達の特権でも何でもなく、そういうことは、本来やってはいけないのですが、余っていればということで、讀賣新聞とスポーツ報知は、ちょっと持ち帰っておりました。
ただ、朝のマンションなどの集合ポストというものは、いろんなものが投函されていて、
それが、不要ということで、隅の段ボール箱にどんどん捨てられていましたので、それを時々貰って帰り、楽しんでおりました。
なかでも、『リビングおかやま』と『こんにちは新聞』は、いくらも拾えました。軒並み配ったら、配達料いくらぐらいなのかなぁというのが、一番の関心ごとではありましたが、持ち帰ってちゃんと読むと、『リビングおかやま』って面白いなぁと純粋にそう思えました。
当時13万8000部。無料で配布する。その影響力や仕組みというのにも、関心がありました。

そして、秋の朝、『リビングおかやま』に、営業社員募集という文字を見つけました。当時、母方の祖母が亡くなったりする中で、言葉は不適切ですが、ドタバタの中で、履歴書を送りました。というか、会社が田町だったので、郵送ではなく、締め切り日に届いた前提で、翌朝未明にポストに入れといたというようなエイヤーでした。

それから、入社試験と面接のようなものがあって、今から思うと、多分、履歴書の学歴を見ての勘違いで、間違って採用されたのだと思います。見方によれば、岡山ではすごいエリートに見えなくもなく、ただ、スーツもネクタイも、まともにもっていない有様で、とてもひどかったっと思います。

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会社組織に初めて入れて頂いて、憧れの社会人の片隅において頂いた秋。当時の社長さんから、給料いくらほしい?と言われて、まともな社会人経験がないですからねぇと言ったら、新卒扱いになり、これはやっていけるのかな?と思ったスタートではありました。

多分、会社利益には貢献しないダメ営業マンだったと思いますが、私が吸収したものは、日々本当に大きかったと思います。それは、乾ききったスポンジを水に浸したような感じです。
当時の私は、こうでないといけないとか、こうあるべきとか、一切考えていませんでしたから、本当に楽でした。何も考えていないわけではないけれど、とにかく来る話は、全部受けました。

結果的には、岡山市民劇場の会員なのに、営業をかけ、あんまり効果がなかったので、顰蹙を買った気がしないでもないのですが、その市民劇場の事務局で、「私は女優よ」という今までにあったことがないタイプの女性に出会いました。東京でなにかしていたらしいのですが、突っ込みどころ満載の同級生は、私のことを「真さん」と呼びました。「真さんも芝居をやんなよ」と誘われるままに、あとで気が付いたのですが、岡山の老舗の「劇団ひびき」に入りました。中学生以来の演劇ですが、数回、舞台に立ったりもしました。
なにしろ、金曜日の稽古の後、表町のなかむらで、ワイワイと焼き鳥を食べたりすること自体、学生時代にすべきことだったような気がして楽しくて仕方ありませんでした。
それから、切ないような申し訳ないようなこともあったのですが、「真さんには悪いけれど、私、結婚することになったんだ。」と言って、女優は、一足先に劇団を去っていきましたが、今から考えても、特に、全然悪くないんだけど・・。

それから、日曜日のスーパーで、試食品の実演販売やらない?という男性マネキンの話もあって・・就業規則に触れる話です。

人間関係でどうのというほど、当時の私は、繊細ではなかったし、いろいろあるがなというスタンスでしたから、悩むことはありませんでいた。良い意味でも、いい加減でした。
ただ、あくまで、新聞社でありますから、編集は編集で、強い誇りを持つことは当然にしても、しばらくして、一ページが幾らでといろいろ計算すると、行き詰まるような気がしました。そういうときは、Kさんのところに相談に行くのですが、Kさんの答えは、いつも決まっていて、「佐藤さん、あまいねぇ。新聞配りなさい。」で・・就業規則に触れる話です。

司法試験の本などはそのままに、煮え切らないところもあったのですが、特に、事業社の事業の応援は、楽しかったです。
奥津のオートキャンプ。同僚の車で寝ましたが、子どもたちを喜ばせようと、ダム付近でクワガタムシを拾いまくりましたが、段ボール箱に入れていたため、全て脱走。

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島根原子力館おもしろわくわくツアーでは、「リビングおかやま」が、どれだけ読者の方に愛されているかを知りました。その頃には、俺、もてるんちゃうんかと勘違いできる余裕すら生まれていました。

 

 

翌年の夏。フジサンケイグループの研修に、わざわざ出して頂いたときに、敢えて、大隈講堂の前で野宿しました。一晩中、大隈講堂のボンボリ顔を見ていたら、子どもたちのラジオ体操が始まりました。あの時のように、何も答えてくれませんでした。やっぱり、喜んでくれていないよな・・・。

政治の世界へ繋がる扉が、開き始めていることに、その頃は、全く気が付いていませんでした。