9月29日(木) 9月定例県議会閉会

私にとっては、私史上最低の9月定例県議会が終わりました。直後に、選挙を控える伊原木知事のこの任期最後の議会でありました、4年間を総括的に問うにしても、どこか遠慮がちで、補正予算等も大きく動いていないため、盛り上がる要素が少なかったこともあります。
ただ、私の方は、体調が安定せず、終始熱っぽく、声も出ず、倦怠感に襲われる有様で、初めての本会議の欠席が1日、さらに、遅刻、早退があったことを県民の皆様に心からお詫び申し上げます。
もちろん、委員会は欠席しておらず、今後も意地でも、休む気がありませんが、声が出ないという状況には、本当に思いつめました。

ほかにも少し懸案があり、6日からの知事選挙も、なにか転回が望めるかわかりませんが、思いを県政に反映させるためにも、ともあれ這いつくばってでも、闘います。

【コツンと音がする その1】

今日のような雨の日は、新聞配達の方々が本当にたいへんだと思います。私は、梅雨の朝、新聞配達のバイクで転倒して、泣きながら、びしょびしょになった新聞を拾ったことがあります。

私が、中学2年生位以降、我が家は、陶器屋ではなく、母が起業した昼夜保育園が、メインのようなところがあって、いざ腹をくくれば、男性よりも、女性の方が遥かに強く、こと子どものためとなれば、その命すら惜しまないというのは、肌で感じていました。一方で、どちらかと言えば、それまでは、ただ暢気だった私の思春期は、陶器店がなくなった身内のゴタゴタで、殺伐としたものに染められます。
その中で、身を粉にして働く母の願いは、なぜか私が早稲田大学に行き、弁護士になることでした。それを平然と口にしました。

今にして思えば、ピアノはもちろん、琴が弾ける田舎の大庄屋の娘が、何もしなくて良いと言われながら、続いていれば操業100年を超えている陶器屋の卸に、嫁いできて、陶器屋が廃業。自らが、昼夜保育園を起業して、朝から深夜まで働き続けるというのは、まさしく想定外。おそらく、実家には、詳細も報告せず、難しい身内や親戚の中で、踏ん張ってきた。彼女にどんな夢を描くことができたろう、と思います。

総合選抜になって、一宮高校の分だけ、募集定員が増えて、たまたま県立普通科生徒になっていた私(友人の何人か、中学浪人した)は、純粋に日々遊び呆けており、漫画を描くか、詩を書くか、プラモデルを作るか、自転車による徘徊を繰り返しており、成績は明らかに、後ろの10分の1に、入っていたと思います。私には、自分が何になりたいのか、なんのために勉強するのか、基本的なところで、何もありませんでした。
先生方は、とても熱心で、新設校の生徒は、朝日や操山に負けるなの勢いで、誰もが早くから受験を意識し、必ずしも、明るい雰囲気ではありませんでしたが、私の方は、中学4年生、中学5年生と揶揄されつつも、元気に遊んでおりました。

そういう、バカ息子に対して、何が当時、そんな夢を毎日のように、念仏のごとく言わしめていたのか、そもそも、なんで早稲田だったのか、いまだに謎です。
一方、弁護士の方は、分からないでもない願いでした。詳細は書きませんが、愛や暴力では、どうしよもならない、最後は、法なんだろうと、当時の私も、肌で感じていましたから。
そうして、何もできないのに、刷り込みだけが行われた主体性のない人生に無責任な人間になることを甘受していったのは、外ならぬ私自身です。
かくして、一部の友達とは、順調に補習科一期生になるんだろうと思っていた私は、当時のセンター試験で、素晴らしい成績を取り、にわかに、岡大特美に志望変更し、二次試験で、眠っている己の芸術的才能の覚醒に期待しましたが、自分でも凄く下手で、美術をなめているとしか思えない所業で、遅まきながら、当時の関係者に心からお詫びを申し上げます。
しかし、そういう状況ですら、念仏は続きました。

もはや国立大学に行けるような多くの課目に手を出すことにはなから限界を感じ、私立文系専願で、本当に全く記憶のない無反省な補習科1期生でしたが、なんの拍子か分かりませんが、東京六大学の某文学部だけ通っていました。
しかし、なぜかその時には、私は、早稲田大学に行く気になっていました。
バブル前のそれなりに景気の良い時期ではありましたが、兄と仕送り時期が被ることを大義に、わざわざ2浪目の道を選びました。それは、もう説明のしようがありません。受験の日、10号館から眺める雪を冠に被った大熊講堂。どんよりと曇る空の下、大鷲の跳躍前の緊張感が、張り詰めていました。
『ブルースブラザース』で、教会で、「ロックだ!」と光が差し込み、ジョン・べルーシが跳ね回るあの瞬間。「あぁここに帰ってこなくてはいけない・・・」魂の底からそう思えたのです。

宅浪が条件でしたから、かくして、中央図書館や県立図書館をベースに、中学浪人したのに、またここで浪人したドジな友と切磋琢磨しながら、生れて初めて、ちゃんと勉強しました。小学6年生までは、どちらかというと勉強できる方でしたが、なにしろ遊び呆けていた分、余裕がありました。
一日、10時間から14時間、単語のや文法のド基礎から勉強しているうちに、英語など、偏差値が、25伸びたりしました。誰に教わるというより、有名な予備校のテキストをかき集め、繰り返しただけです。
なお、私の集中の仕方が、いかにいかれたものであるか、その姿を見ずして、単純に時間で、測れるものでは、ありません。
やはり、受験勉強には受験勉強のやり方があります。少なくとも、当時は。合格体験記を読み、最大公約数的に良しとされる受験参考書を集め、それをどうやり通すか考える。人間の集中力は、1時間が続かないことを前提に、課目ではなく、英単語や漢文や日本史や文法や漢字や構文に分けて、飽きが来ないようにグルグル回して、数か月で終わる前から、第二陣が追いかけ、グルグル回す。
図書館における当時のいでたちも、尋常ではありませんでした。ながら勉強などというのはありえません。音をたいへんに気にしていたので、長さや密度において、もっとも効果的な印鑑を耳栓代わりにさしていたのですから。

効率的に時間を使い、自分を律することができるという意味においては、やはり、偏差値というものは、それなりに意味があるかもしれません。限界だと思えるまで勉強したことがない者に、偏差値を語ってほしくないところはあります。
ただ、その高さは、なにかの代償によるもので、敢えて言えば、少し欠落しているものがあるかもしれません。少なくとも、他人への思いやりや優しさとは、比例していません。

いまだに、大学の受験勉強というのは、本当はたいしたことがないいんじゃないかと思うのは、あんまり家族的に、金銭関係など問題がなくて、しっかりしたお宅のお子さんならば、高校から2000時間の勉強で早稲田に、4000時間ぐらいのお勉強で、東大には行けるんじゃないか、という「疑い」があります。あとは、余計なことに捉われず、時間をうまく割り振りできるかどうか。それだけのことなんじゃないかな。
ただ一方で、その間は、少なからず人間性を失うなぁと思います。私は、この年の記憶は、勉強以外にありません。にもかかわらず、ご幼少のみぎりから、競争に晒す社会に放り込む必要があるのか・・・。今の子どもたちを見ていると本当にかわいそうになります。どんな思い出があるのかな。

大切なのは、やるべき時に、本当にやる気と力が引き出せるかどうか。受験勉強に限らず、高校の先生方は、それが、一番の仕事なのにな。方向性を見失った県立普通科生は、意外に多くいるかもしれません。少なくとも、中学、高校の先生が、私を教え子というのは、少し憚られるかもしれません。糸が切れた凧が、空中で、でたらめに旋回していただけで、行く先は、本人すら分かっていなかったのですから。

結局、私立文系最難関の政経学部政治学科をはじめ、軒並み合格はしたのですが、正直なところ、やや燃え尽きた感があり、目標を見失う中、憧れのキャンパスに踏み出しました。
時は、バブル前夜。
しかし、「あんたが、弁護士になってくれたらえええのになぁ」という言葉は、東京までついてきました。

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