10月3日(月) 断捨離
本来は、決算特別委員会の2泊3日の県外調査で、東京、福島に行かねばならないのですが、残念ながら見送りました。県外の調査地でも、わりと積極的に発言する方ですし、単独行動で、朝夜、行方不明になったりするのですが、体力が、今は、ありません。悔しいけれど、仕方ありません。
しかし、県外調査の写真の整理もしているのですが、3泊4日の常任委員会と2泊3日の特別委員会を毎年、18年も続けると、さすがに行っていないところの方が、珍しくなってきます。
今日は、佐藤真治被害者友の会会長のたいへん無理を言って、朝から、事務所の断捨離。と言っても、気持ち的には9割以上は捨てます。
想念で、澱んでいた感じが、少し風が抜け出しました。現状を考えても、現在地で、事務所を維持するのは、少し難しいなという気だいたしております。
あるお店に行ったら、「お父さんどうぞ」「お父さんこちらです」とか、気安く言うので、誰が、お父さんやねん?と思ったのですが、冷静に考えると、51歳だし、ここのところ、全面的に疲れを表現しているし、まぁそうなんだろうなと思いました。
で、冷静に考えると、私は、52歳でした。だめだ、自分の年も、分かんねぇ!
【コツンと音がする その5】
自分が、なにかおかしいと確信したした年の暮れから、年明け早々、親友が結婚しました。首尾よく、岡山の超安定企業に就職し、しかも、お相手は、学生時代からお付き合いのある美しい方で、立派なご両家に、さながら、会社の品格が溢れ出るような立派な披露宴でした。新婚旅行の見送りに、会社の方々に紛れて、駅まで行きました。
そこで、もはや嫉妬するというレベルではなかったのですが、一番強く感じたのは、ちゃんとやっていれば、ちゃんとしたことになるになるのに、なんで、私は、わざわざそれができないのか?ということです。普通のことが、なんで普通にできないんだ?誰かと比較してどうというよりも、単純に自分が、おかしいんだなと思いました。
いわば20代半ばのプータローということ自体が、あるまじきことで、せめていくらか稼ごうと思いました。当然のことです。
ただ私の中で、常に気になっていたこと。これをやれば、変わるんじゃないかなと思っていたのは、実は、新聞配達でした。野田屋町の読売中央ICの前を通るたび、配達員募集の文字が気になっていました。なんの根拠もなかったのですが、それができれば、私は、変わることができる。
2月のある日、新聞配達所の扉をあけました。「新聞を配らせてください」。暗闇の中、扉が開きました。
当時、責任者のKさんは、たいへんお元気で、あまっちょろそうな青年が、いきなり扉を開けて、「お金を払ってもいいから、新聞を配らせてください」と訳が分からないことを言いながらやってきたという印象だったようです。なにしろ、女手一つで、息子さんを2人育てられていて、40歳ぐらいだったと思いますが、Kさんから見ると、なにしろ私は、だらしない生き物だったと思います。
しかし、まぁ何が凄いかというと、「それじゃ明日から配りましょう」ということになったことです。原付の免許は持っていましたが、ペーパードライバー状態でしたし、スーパーカブは乗ったことがないし、結局、Kさんとその日の夕方、岡ビル前遊園周辺をグルグルと回って、バイクの運転の練習をしました。もろに、小学6年生まで住んでいたところですが、誰も私を知らなくなっていたので、面白くもありました。
そういえば、原付免許は、友人たちと鮫洲の運転試験場に受験に行ったのですが、筆記試験後、一人だけ立たされました。「あなただけ満点です。」というところまでは、非常に格好良かったのですが、その後の自治のふざけた態度に、「お前、帰れ!」と言われて、平謝りの末、許してもらい免許を頂戴しました。やはり、なにかが、ダメなのだと思います。
そして、Kさんに、明日朝何時に来れば良いですか?と聞いたら、「あ、2時半ね~。」でした。平和町から、野田屋町ですから、出勤時間は、3分です。一人で配るようになって、慣れてきたら、結局、3時40分出勤になりましたが、まずは、Kさんの後ろをバイクでついていきました。当時は、10区あって、私の担当は、2区でした。学区で言うと、南方学区と弘西学区です。
讀賣新聞に加えて、スポーツ報知は、もちろん、日本証券新聞とか日本繊維新聞というのもありますし、こういうのは、会社用ですから、帯で包まなくてはいけません。また、雨が降ったら、明らかに濡れるような新聞受けがあり、そういう時は、新聞をビニール袋に入れなくてはいけません。なにより、当時は、折り込み広告は、手作業で挟み込んでいましたので、出発するまでに、ひと作業もふた作業もありました。
地図をもらって、最初は、オリエンテーリングのようだったものが、いずれ、体がリズムで覚えてきます。南方の国鉄官舎が、一番たまりませんでしたが、階段も小走りで行けるようになります。どこのアホ犬が吠えるのか、どこのポストが、指を切るような危険があるかも、分かるようになります。
新聞配達を始めた2月というのは、とても良い季節でした。もちろん、出勤までは寒いですが、走りだせば、すぐポカポカあたたまってくる。なによりも、少しづつ、春を体で感じ、一年で一番美しい3月の夜明け、日の出には、空に向かって叫びたくなります。朝早くて辛いとかいうことは、まったくなくて、毎朝、最も新しい太陽の光を受けました。
で、結局、正確なことは書きにくい事情があるのですが、軽く1年以上、新聞配達を続けました。
当時の配達所には、様々な方がおられましたが、私自身がそういうことですから、詮索する気は全くなく、よくわかっていな部分もあります。親元をとにかく離れたくて頑張っている学生が、パチンコにはまっていたり、アルコール中毒で、来られなくなる方もおられましたが、皆さん、それぞれの事情で頑張っておられたのだと思います。
私も何かあったら、また、新聞配達から頑張らせて貰おうと思っていたのですが、残念ながら、今の私には、朝の街を駆けまわることができません。
それにしても、讀賣新聞は、学生時代には、本社で、お茶くみのようなバイトをしたりしておりました。正確に言うと、ラジオを聴きながら、コンパクトにまとめて、プロ野球の速報をなんかのテロップに流すというような、なんかいまだに、謎の仕事でしたが、ニューメディアの初期だったと思います。
社員食堂で食事して、帰りは、大浴場に浸かったり、比較的暢気でしたが、東京サミットの頃、不審人物で、カバンを開けさせられ、中に、洗面用具しか入っていないということもありました。
そういえば、後楽園球場の切符のもぎりのバイトでは、讀賣や日本ハムの試合をよく観たものですが、縁あって、讀賣新聞を配るようになっても、讀賣ジャイアンツのファンになることはありません。
多分、春だったと思いますが、配達が終わって早く帰りたいもので、桃太郎大通りを信号無視して渡りました。なにかいったん平和町に戻っていたのかもしれません。その際、後ろのスーパーカブの警察の方に、捕まえて頂きました。
朝6時ごろ、「わしの目の前で、容赦できん!」ということでしたが、反則金が、8000円。
当時、1件月当たり250円で、200件。5万円が、全てでしたから、本当にきつかった。悪いのは、もちろん私ですが、いまだに思うことがあります。誰を傷つけるでなく、感謝される仕事。1件1日10円にもならない積み重ねの仕事。
お金を稼ぐということのたいへんさ。集金も、少しだけしたことがあるのですが、私には、もちませんでした。私服で、会社のカウンターで、新聞代を集金する、いつ帰るかわからない学生を何度も待ちながら、会えても、現金がない。それでも、1件集金できて、やっと100円です。自動振り込みにする自振とか、長期契約を取るしばりとかは、もう少し高かったですが、なかなかそういうことにはなりません。
そうこうするうちに、1年で、もっとも辛い梅雨がやってきました。配達員がいくら塗れようが、新聞は、絶対に濡らしてはならないのです。なんだかんだで、通常の1.5倍の時間と手間暇が、毎日かかる季節です。
ある梅雨の朝。新幹線の側道沿いに出る交差点で、私は、はじめてバイクで転倒しました。そこら中に、新聞がぶちまけられて、びしょびしょになりました。涙がどんどん雨で流されました。
コツンと音がしました。・・・聞こえました。