9月26日(月) 文教委員会

今朝は、文教委員会の前に、採血をしました。

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 私は、とにかく注射が大嫌いです。しかし、採血すべき血管が皮下脂肪の下にあり、なかなか見つけにくい採血者泣かせでもあるようです。
颯爽と若い看護師さんが、注射針を刺され、しかし、ぐりぐりっとしたあげく、「一度抜いて良いですか?」と言われたときは、絶望の淵に叩き落される感じがします。そこに、なにげに、顔見知りのベテラン看護師さんが登場し、神業のように、ほとんど痛くなく、注射針を刺されたりすると、心から感動します。
 今朝もそういうことでしたが、なんにせよ、朝からの注射は、無茶苦茶テンションが下がります。
 それでも、委員会では、質問や提言をどんどん行うのでありました。できるだけ委員会の時間を引き延ばし、病院には戻りたくないんだ というようなことは、おそらくは、ありません。
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【友 その1】

この「業界」に入って、顔見知りこそ増えても、友達が増えたということはないと思います。
ネットワークビジネスではありませんが、政治の世界と全く関係のない友人を後援会活動に参加していただき、あげく、選挙に際して、ランク付けをしたりするような指示が、どうしても受け入れられませんでした。
私には、喜怒哀楽の私なりの人生があり、そこで出会ってきた人があり、愛憎悲喜こもごものなかで、培われた人間関係というものがあります。
今も堅気の仕事とは思っていませんでしたが、20年前は、人によっては、妙に胡散臭く、少なからず離れていった人もいるでしょうし、こちらにも、何とも言えない後ろめたさがあり近づかなくなった方もいました。

それでも、もがいているうちに、御用聞きなのか、偉い代理なのか、機械なのか、ともかく私の実体とはどんどん関係がなくなり、自分自身が何者かわからなくなってきました。
新聞の集金をしていた頃は、カウンターや受付で、すべてのことが終わりました。営業マンをしているときは、カウンター越しに担当の方が見えても、会っても頂けず、おそらく居留守などしょっちゅでした。
しかし、ひとたび、代議士秘書の名刺を出すと、いそいそと上着を着て、偉い方が、「今日は何事でしょうか?」といそいそとカウンターを越えて、出てこられました。それを面白いとか凄いとかとは感じませんでした。
2年間の間に、肩書が変わっただけで、私は何も変わっていないのに、と20歳代の私は、私自身を見失いました。

その頃、社会人ゼミという異業種交流のグループに救われました。月に2回、日曜日の夕刻集まる勉強会で、日曜委の夜に、そのままワイワイと飲みに行くという流れでした。今から思うと、独身だからなせた業かもしれません。そう言えば、何回か妻も来てたかな。
一方で、代表も少し躊躇はされたようですが、代議士秘書という業界の人間も、一職業として迎え入れられ、やっと自分を見つけることができました。
そして、私の人脈の中から、講師の要請を行うことも可能でしたし、敢えて言うと、自民党とは全く関係のないまちづくりやNPOなどの方々と知り合うこともできました。また、ややアングラ的な夜想という集いの中で、文化とか芸術とか、およそルートセールスとは違う刺激も頂戴していました。
あげく、「おかやま未来フォーラム」という、なんだかわけのわからないグループで、自腹で手作りの『What‘s New』という寄せ集めの思いを集約した機関誌を公民館に配りまわったりしました。

そして、この社会人ゼミには、決して、政治(選挙)を入れませんでした。

本当にあの頃は、楽しかった。日々面白いように、知り合いが増えて、そして、今から思えば、あの時期が、普通の友達ができるまさに最後の時期だったかもしれません。

9月25日(日) オストメイトの集い

今年も、桃太郎ぶどうを頂戴することができました。実がぷりぷりで、生きとるなぁ!!という感じがします。

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運動会や敬老会が多いこの時期に、せっかくご案内を頂戴しながら、伺えないケースが続いています。選挙がある議員としては、もはや正気の沙汰ではありません。
正直なところ、朝礼台に駆け上がって挨拶するとか、パン食い競争に参加するのは、絶対に無理。出店で、愛想して回っていたら、本当に倒れるかもしれません。敬老会もそうですが、その場にならないと、声が出るかどうかも分からない。絶対に吐きませんという確信もありません。ましてや、はしごなどしようものなら、数日は、寝込むかもしれない。当然、技家での委員会出席にも、支障が出るというケースは、なんとしても避けねばなりません。
少なくとも、来賓が複数いるのであれば、私がいなくても、大丈夫。いずれ、心配は、怒りに変わり、やがて、忘却の彼方に消えていくのでしょう。
どうしようもありません。

 

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一方で、今日は、オストメイトの集い。私も、部所は違うのですが、オストミー協会の会員です。きっちりと研修会を重ねられており、そういう中で、機械的な県の予算カットは、やはり避けなければいけません。しんどい時には、しんどいと言える、それが理解できる関係、黙っていても、励まし合える関係・・・やはり、いくら想像で語られようと、がん友でないと分からないと思います。

 

【家族】

思えば、中学2年生の時に、家業が自主廃業するまでは、最大のコンプレックスは、肥満であり、これとて、思春期にもう少し頑張れば、なんとかなっていたかもしれません。ただ、長年続いていた陶器屋がなくなり、たちまち、残った倉庫を活用して、母が、無認可の昼夜保育園を始めたことは、思春期ど真ん中の私の人格形成において、かなりの影響を与えていると思います。
もちろん、深夜まで預けられたり、放置される子どもたちの姿には、世の中、強い者が、弱い者を踏みにじり、弱い者には、起死回生の一発を打つほどのチャンスも与えられていないのではないかという社会に対する漠然とした怒りを感じました。あれから、35年以上経って、あの時の子どもたちは、どんな親になっているのだろう?
一方で、深夜の保育園で、当時の若い看護師さんたちがどれだけ助けられたかをこの間、伺ったときに、母には、全く申し訳ないのですが、やっと母の頑張ってきた仕事に、誇りを感じることができました。感謝に感じてくださっている方が、他にも多くいらっしゃるに違いありません。
ただ、当時は、全国的に、いわゆる「ベビーホテル」と揶揄され、多くの事故が起きていた時期でもあり、附属中学というエリート集団の中で、ずっと押し黙って暮らしていました。
いずれにせよ、小学校までは、鍵っ子状態で、そこまで、父親が酔って暴れるようなことがあっても、ある意味、恵まれた愛情の中にいたのかもしれません。

 

ただ、中2以降、私自身が、愛情を曲解して、現実でない親の気持ちを組み入れてしまいました。朝7時過ぎから、夜中の2時3時まで働く母の姿に、なんとか報いなくてはいけない。その願いをかなえない限りは、私は、全く愛される価値のない人間だと思い込むようになっていました。もちろん、現実の親がそれを願っていたのではなく、無責任に重要な価値基準を勝手に作り上げたのは、私です。条件付きの愛情と思い込んだのは、私です。
そのことは、いくら詫びても詫びきれないような辛い思いをする影響を与えてしまったようなこともあり、次男として、とことん逃げれば良かったのかもしれません。
かくして、小さい頃から言われた通り習い事をし、塾に行き、親の期待に応える良い子を演じるうちに、もはや、自分自身で選択もできないような大きな子どもを作ってしまうことになりました。

結果として、大学時代に、自分を完全に見失った私は、親の期待を大きく裏切りました。ただ、バブルのあの時期、自分があれば、逃げることができた、普通の選択もできたはずなのに・・

敢えて言えば、私が、地方議員になることなど、亡父も母親も、望んでいたことであるはずもなく、むしろ苦悩の種を作っただけでした。ましてや、親より先に逝くような最高の親不孝をしてしまうかもしれません。特別な才能に恵まれてれているわけでも、強固な組織に守られているわけでもない貧乏人の子せがれが、勝手に無茶をしただけのことです。

 

一方で、私には、大切な家族がいます。
ただ今となっては、ただただ詫びるしかありません。私が長く生き続けることが、家族の幸せなのか、もはや確信もありません。

妻は、高校の同級生で、あの真っ暗な家庭の中でもがいていた頃の憧れの女性でした。もしも、私のくだらない人生に、一点の栄光があるとすれば、それは、選挙に通って、高校時代の憧れの女性と結婚した、そのことに、尽きるかもしれません。あぁ、そこは、幸せだったんだろうなと。
ただそれは、こちらの勝手な思い込みであり、私より、はるかに人間的にしっかりしていて、才能に溢れる女性に、下着を洗わせ、散々こき使い、普通の暮らしさえ満足にできない悲しい人生に、叩き込んだだけというのが、実態だと思います。詳細は書けませんが、これ以上ない迷惑をかけていると思います。
かと言って、じゃぁこれから何ができるのかというと、それも分かりません。

思えば、50回以上にわたる本会場での代表質問や一般質問を彼女は、必ず傍聴席で、聴いてくれました。自己犠牲の日々。
まぁ、まだしみじみと振り返ることをすべきではないだろうな。

そして、一人っ子の息子がいます。高校生になり、最近、妙にでかくて、もさっとしておりますが、本当にやさしい子に育ってくれました。
私自身は、なにかあれば、体を張って必ず守るけれども、条件付きの愛情になるような表現は、一切してきませんでした。むしろ、自分の責任において選択しろという、かなりいい加減な放任状態であったと思います。少なくとも、こうあるべきだ、こうでなくてはいけない、こうあって欲しいという、私自身を苦しめた言葉を発したくはなかったのです。
ただ、これから、起きうることを想像すると、それは、彼の人生に制限を加えたり、著しく自由を奪うことになるかもしれません。
貧困という言葉さえ、極めて現実的なことです。
それでも、きっと乗り越えてくれるものと信じます。

いずれにせよ、いろいろあったけれど、私は、家族に愛されて育ち、今も、ただただ守られています。

はっきり言えることは、妻子になにかあれば、私は、生きていないということです。

9月24日(土) 今はもう秋

トワ・エ・モア=『誰もいない海』 

【自己肯定感】

基本的に自己肯定感が強くない者が、大きな病気と闘う中で、ふと、もうえええじゃないかという虚無感に襲われたりします。もちろん家族のことを考えるのですが、実際に見せている日々の醜態は、情けなく、申し訳なく、かえって家族の足を引っ張っているだけのような気すらして、そういう精神状況で、元気に笑顔の営業をする自信は、日々無くなります。それ以上に、基になる気力がなければ、体力がわいてきません。
昔なら、あんたの笑顔に救われる、という言葉も頂けたような能天気な面構えも、大丈夫か?とまず一番に心配して頂ける、それは感謝なのですが、周辺に不安と心配を売って回る議員が、どこにおるんなら?と益々、自己肯定感を失う現状です。お涙頂戴の大根役者には、なりたくありません。
ただしかし、そんな無様な姿さえ、どこかで支えにしてくださる方がいるとしたら、その方々のために、まずは頑張りたいです。世間的な評価はいざ知らず、間違いなく、今の私は、弱者以外の何者でもないのですから、逆に、今だからできることもあると強く思います。

それにしても、仮に、業界というものがあるとすれば、私たちの業界は、なんと自己肯定感が強い人が多いのだろう?と不思議に思います。時には、虚勢の人もありますが、いったい何を根拠に、そこまで客観的な根拠が無い自己評価による自信が持てるのか?羨ましいというよりも、ただただ不思議に思えるのです。
特に、街中に、自分の顔面どアップのポスターを貼りまくるというのは、私には、自分の廉恥心に触れるのですが、それができるのが、選挙に出るような人の絶対必要条件なのかもしれません。
考えてみれば、自分が自分をろくでもない人間と思っている者が、あるいは、普通の人でさえ、私は、素晴らしい人間ですと不特定多数の前で叫ぶようなことはは、なかなか常人にはできることではありません。
もちろん、本来は、やむにやまれぬ義侠心や使命感から立ち上がるべきなのですが、その根底には、不安感があるにせよ、本質的に、そういうことが好きなんだろうとしか思えない人も、見かけます。

やはり、蝶よ花よと育つ人は稀でしょうが、少なくとも、人より恵まれた環境で、エリート街道を驀進したり、特異な容姿や才能に恵まれていたりすれば、自分に自信を持って当然でしょうし、それらが、実は強烈な劣等感も裏返しで、過度な自己肯定感を持つ場合も、出てくる現象は変わりません。

私が、代議士秘書になりたての頃は、少し田舎から出てきて、良い意味で、書生のような雰囲気で、県議会議員になられていた先生が多くいました。しかし、代議士を支えられるような後援会活動を展開できる家業や組織もなく、まさに、書生風情で地方議員になった最後の方になるのかもしれません。それゆえに、「恩」という言葉は、常に重圧として圧し掛かり、そもそも自分は本当に議員としての適性があるのかどうかすら分からなくなる自己肯定感の揺らぎの中で、もがくことになります。
50回以上本会議で、質問提言を繰り返し、委員会でも、積極的に発言し、地域の課題に正面から取り組もうが何をしようが、いつまでたっても、本来自分は、議員になるべき有用な人間ではなかった、という結論にしかならないのです。いくらでも私の変わりはいる、そういう虚無感の中を生きてきました。

やはり、選挙に出るのならば、代々家業として行ってきた二世議員か、強固な組織に守られた者か、地域で会社を経営してるような人の方が、適性があると思います。少なくとも、借家暮らしで、井戸や塀も残らないような者が、青雲の志という徒手空拳で向かって行けるようなものではありません。要するに、選挙で金に困るようなレベルの者は、選挙に出る絶対必要条件を欠いているということです。ましてや、自分に自信のないもの、自己肯定感が低いもの、中学時代に家業が自主廃業したような家の者が無理をすれば、早晩病気になるだけです。
そして、今となっては、来る者はなし、去る者は追いようもない という達観した心境になっています。陰気のエネルギーを振りまく疫病神ぐらいのようなものでしょう。

それでも、選挙と政治は違うのだということ。選挙にどう通るかではなく、本当に政治はどうあるべきかを夜を徹して熱く語ることができる全く無名の者が、保身や立身出世のためでなく、誇り高く、政治の舞台にどんどん立てる日が来ることを夢見ています。
一方で、やはり、地方議員は、こんなに必要ないというのは、また改めて。

9月23日(金) 決算特別委員会 産業労働部

本日の決算特別委員会は産業労働部の審査。

ここのところずっと、副作用もあり、なにしろ声が出ないため、絶望の淵に立っておりました。這ってでも、車椅子でも、議会や委員会には行けると思っておりましたが、いくら頭が回っていても、今の議会では、声が出なければ、議員としてどうしようもありません。当然、挨拶等がある地域の行事など行けるはずもなく、体調不良と相俟って、なにも良いことは考えられませんでした。

しかし、今日の委員会では、思い切り声を絞り出しながら、いつも通り、大量の質問をし、再質問等の議論もしました。いつもの何倍も疲れましたが、ひとたび会議の席に着けば、確実に会議録に発言を残すことができる、周囲には、ただ聞き苦しかっただけだと思いますが、私自身にとっては、最高の喜びでありました。

街頭演説や応援弁士で、盛り上げていくようなことは、今は、望むべくもありませんが、必ず、再び。

 

『宙船』

【馬鹿は死ななきゃ治らない】

つらつら振り返るに、自分自身の大きな反省として、結局、人生の様々な場面で、一番大切な判断をどこかで委ねてしまっていた気がします。

 それは、時に親孝行や忠義の仮面をかぶりながら、その実、少しも、自分のことを大切にしていなかった、なによりも、自分や大切な家族を守ることに、あまりに無責任だったのだと思います。自己肯定感の低さゆえ、植え付けられた贖罪意識や恩返しの強要(それとて、自分自身が作り上げたか仮想かもしれないし、少なくとも拒否しうるものでした。)を甘受し、そこに意義を見出そうとしていた本当は、空虚な自分がいました。結局、常にリスクを取ってきました。
結果として、誰かの都合の良いように、ただただ無理難題を背負い込み、最後は、それに押しつぶされた気がします。
 がむしゃらに突っ込んでいく、捨て身で行く、突き詰めれば、自ら潰れていく、自己否定から自己破壊する、そこにしか無価値な自分の評価を見出せない、そういう馬鹿野郎でした。
 誰かがうまくやっているというのではなく、普通なのですが、その普通ができなかった。普通にやれば、良かっただけのことです。まずは、ただ、自分や家族を一番に守ることを考えれば、良かっただけのことです。
 ただ、どこかにそういう馬鹿がいなければ、物事を進めたり、壊したり、守ったりすることはできないと思う自分がいて、結局、馬鹿は、死ななきゃ治らない のでしょう。

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9月22日(木・祝・秋分の日)

やはり9月23日が、秋分の日でないというのは、たいへんな違和感があります。それでも落ち着いた雨に少し気が安らぎました。

 

オフコース=『秋の気配』

9月21日(水) 一般質問5日目

本日で、一般質問終了。

『どろろ』

9月20日(火)

9月19日(祝・月・敬老の日)

9月18日(日)

2

9月17日(土) 9月の雨

少しだけ気持ちが落ち着いて
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小林麻美=『雨音はショパンの調べ -』