9月25日(日) オストメイトの集い
今年も、桃太郎ぶどうを頂戴することができました。実がぷりぷりで、生きとるなぁ!!という感じがします。
運動会や敬老会が多いこの時期に、せっかくご案内を頂戴しながら、伺えないケースが続いています。選挙がある議員としては、もはや正気の沙汰ではありません。
正直なところ、朝礼台に駆け上がって挨拶するとか、パン食い競争に参加するのは、絶対に無理。出店で、愛想して回っていたら、本当に倒れるかもしれません。敬老会もそうですが、その場にならないと、声が出るかどうかも分からない。絶対に吐きませんという確信もありません。ましてや、はしごなどしようものなら、数日は、寝込むかもしれない。当然、技家での委員会出席にも、支障が出るというケースは、なんとしても避けねばなりません。
少なくとも、来賓が複数いるのであれば、私がいなくても、大丈夫。いずれ、心配は、怒りに変わり、やがて、忘却の彼方に消えていくのでしょう。
どうしようもありません。
一方で、今日は、オストメイトの集い。私も、部所は違うのですが、オストミー協会の会員です。きっちりと研修会を重ねられており、そういう中で、機械的な県の予算カットは、やはり避けなければいけません。しんどい時には、しんどいと言える、それが理解できる関係、黙っていても、励まし合える関係・・・やはり、いくら想像で語られようと、がん友でないと分からないと思います。
【家族】
思えば、中学2年生の時に、家業が自主廃業するまでは、最大のコンプレックスは、肥満であり、これとて、思春期にもう少し頑張れば、なんとかなっていたかもしれません。ただ、長年続いていた陶器屋がなくなり、たちまち、残った倉庫を活用して、母が、無認可の昼夜保育園を始めたことは、思春期ど真ん中の私の人格形成において、かなりの影響を与えていると思います。
もちろん、深夜まで預けられたり、放置される子どもたちの姿には、世の中、強い者が、弱い者を踏みにじり、弱い者には、起死回生の一発を打つほどのチャンスも与えられていないのではないかという社会に対する漠然とした怒りを感じました。あれから、35年以上経って、あの時の子どもたちは、どんな親になっているのだろう?
一方で、深夜の保育園で、当時の若い看護師さんたちがどれだけ助けられたかをこの間、伺ったときに、母には、全く申し訳ないのですが、やっと母の頑張ってきた仕事に、誇りを感じることができました。感謝に感じてくださっている方が、他にも多くいらっしゃるに違いありません。
ただ、当時は、全国的に、いわゆる「ベビーホテル」と揶揄され、多くの事故が起きていた時期でもあり、附属中学というエリート集団の中で、ずっと押し黙って暮らしていました。
いずれにせよ、小学校までは、鍵っ子状態で、そこまで、父親が酔って暴れるようなことがあっても、ある意味、恵まれた愛情の中にいたのかもしれません。
ただ、中2以降、私自身が、愛情を曲解して、現実でない親の気持ちを組み入れてしまいました。朝7時過ぎから、夜中の2時3時まで働く母の姿に、なんとか報いなくてはいけない。その願いをかなえない限りは、私は、全く愛される価値のない人間だと思い込むようになっていました。もちろん、現実の親がそれを願っていたのではなく、無責任に重要な価値基準を勝手に作り上げたのは、私です。条件付きの愛情と思い込んだのは、私です。
そのことは、いくら詫びても詫びきれないような辛い思いをする影響を与えてしまったようなこともあり、次男として、とことん逃げれば良かったのかもしれません。
かくして、小さい頃から言われた通り習い事をし、塾に行き、親の期待に応える良い子を演じるうちに、もはや、自分自身で選択もできないような大きな子どもを作ってしまうことになりました。
結果として、大学時代に、自分を完全に見失った私は、親の期待を大きく裏切りました。ただ、バブルのあの時期、自分があれば、逃げることができた、普通の選択もできたはずなのに・・
敢えて言えば、私が、地方議員になることなど、亡父も母親も、望んでいたことであるはずもなく、むしろ苦悩の種を作っただけでした。ましてや、親より先に逝くような最高の親不孝をしてしまうかもしれません。特別な才能に恵まれてれているわけでも、強固な組織に守られているわけでもない貧乏人の子せがれが、勝手に無茶をしただけのことです。
一方で、私には、大切な家族がいます。
ただ今となっては、ただただ詫びるしかありません。私が長く生き続けることが、家族の幸せなのか、もはや確信もありません。
妻は、高校の同級生で、あの真っ暗な家庭の中でもがいていた頃の憧れの女性でした。もしも、私のくだらない人生に、一点の栄光があるとすれば、それは、選挙に通って、高校時代の憧れの女性と結婚した、そのことに、尽きるかもしれません。あぁ、そこは、幸せだったんだろうなと。
ただそれは、こちらの勝手な思い込みであり、私より、はるかに人間的にしっかりしていて、才能に溢れる女性に、下着を洗わせ、散々こき使い、普通の暮らしさえ満足にできない悲しい人生に、叩き込んだだけというのが、実態だと思います。詳細は書けませんが、これ以上ない迷惑をかけていると思います。
かと言って、じゃぁこれから何ができるのかというと、それも分かりません。
思えば、50回以上にわたる本会場での代表質問や一般質問を彼女は、必ず傍聴席で、聴いてくれました。自己犠牲の日々。
まぁ、まだしみじみと振り返ることをすべきではないだろうな。
そして、一人っ子の息子がいます。高校生になり、最近、妙にでかくて、もさっとしておりますが、本当にやさしい子に育ってくれました。
私自身は、なにかあれば、体を張って必ず守るけれども、条件付きの愛情になるような表現は、一切してきませんでした。むしろ、自分の責任において選択しろという、かなりいい加減な放任状態であったと思います。少なくとも、こうあるべきだ、こうでなくてはいけない、こうあって欲しいという、私自身を苦しめた言葉を発したくはなかったのです。
ただ、これから、起きうることを想像すると、それは、彼の人生に制限を加えたり、著しく自由を奪うことになるかもしれません。
貧困という言葉さえ、極めて現実的なことです。
それでも、きっと乗り越えてくれるものと信じます。
いずれにせよ、いろいろあったけれど、私は、家族に愛されて育ち、今も、ただただ守られています。
はっきり言えることは、妻子になにかあれば、私は、生きていないということです。