9月24日(土) 今はもう秋

トワ・エ・モア=『誰もいない海』 

【自己肯定感】

基本的に自己肯定感が強くない者が、大きな病気と闘う中で、ふと、もうえええじゃないかという虚無感に襲われたりします。もちろん家族のことを考えるのですが、実際に見せている日々の醜態は、情けなく、申し訳なく、かえって家族の足を引っ張っているだけのような気すらして、そういう精神状況で、元気に笑顔の営業をする自信は、日々無くなります。それ以上に、基になる気力がなければ、体力がわいてきません。
昔なら、あんたの笑顔に救われる、という言葉も頂けたような能天気な面構えも、大丈夫か?とまず一番に心配して頂ける、それは感謝なのですが、周辺に不安と心配を売って回る議員が、どこにおるんなら?と益々、自己肯定感を失う現状です。お涙頂戴の大根役者には、なりたくありません。
ただしかし、そんな無様な姿さえ、どこかで支えにしてくださる方がいるとしたら、その方々のために、まずは頑張りたいです。世間的な評価はいざ知らず、間違いなく、今の私は、弱者以外の何者でもないのですから、逆に、今だからできることもあると強く思います。

それにしても、仮に、業界というものがあるとすれば、私たちの業界は、なんと自己肯定感が強い人が多いのだろう?と不思議に思います。時には、虚勢の人もありますが、いったい何を根拠に、そこまで客観的な根拠が無い自己評価による自信が持てるのか?羨ましいというよりも、ただただ不思議に思えるのです。
特に、街中に、自分の顔面どアップのポスターを貼りまくるというのは、私には、自分の廉恥心に触れるのですが、それができるのが、選挙に出るような人の絶対必要条件なのかもしれません。
考えてみれば、自分が自分をろくでもない人間と思っている者が、あるいは、普通の人でさえ、私は、素晴らしい人間ですと不特定多数の前で叫ぶようなことはは、なかなか常人にはできることではありません。
もちろん、本来は、やむにやまれぬ義侠心や使命感から立ち上がるべきなのですが、その根底には、不安感があるにせよ、本質的に、そういうことが好きなんだろうとしか思えない人も、見かけます。

やはり、蝶よ花よと育つ人は稀でしょうが、少なくとも、人より恵まれた環境で、エリート街道を驀進したり、特異な容姿や才能に恵まれていたりすれば、自分に自信を持って当然でしょうし、それらが、実は強烈な劣等感も裏返しで、過度な自己肯定感を持つ場合も、出てくる現象は変わりません。

私が、代議士秘書になりたての頃は、少し田舎から出てきて、良い意味で、書生のような雰囲気で、県議会議員になられていた先生が多くいました。しかし、代議士を支えられるような後援会活動を展開できる家業や組織もなく、まさに、書生風情で地方議員になった最後の方になるのかもしれません。それゆえに、「恩」という言葉は、常に重圧として圧し掛かり、そもそも自分は本当に議員としての適性があるのかどうかすら分からなくなる自己肯定感の揺らぎの中で、もがくことになります。
50回以上本会議で、質問提言を繰り返し、委員会でも、積極的に発言し、地域の課題に正面から取り組もうが何をしようが、いつまでたっても、本来自分は、議員になるべき有用な人間ではなかった、という結論にしかならないのです。いくらでも私の変わりはいる、そういう虚無感の中を生きてきました。

やはり、選挙に出るのならば、代々家業として行ってきた二世議員か、強固な組織に守られた者か、地域で会社を経営してるような人の方が、適性があると思います。少なくとも、借家暮らしで、井戸や塀も残らないような者が、青雲の志という徒手空拳で向かって行けるようなものではありません。要するに、選挙で金に困るようなレベルの者は、選挙に出る絶対必要条件を欠いているということです。ましてや、自分に自信のないもの、自己肯定感が低いもの、中学時代に家業が自主廃業したような家の者が無理をすれば、早晩病気になるだけです。
そして、今となっては、来る者はなし、去る者は追いようもない という達観した心境になっています。陰気のエネルギーを振りまく疫病神ぐらいのようなものでしょう。

それでも、選挙と政治は違うのだということ。選挙にどう通るかではなく、本当に政治はどうあるべきかを夜を徹して熱く語ることができる全く無名の者が、保身や立身出世のためでなく、誇り高く、政治の舞台にどんどん立てる日が来ることを夢見ています。
一方で、やはり、地方議員は、こんなに必要ないというのは、また改めて。